規範の負けしろ

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 内田樹先生が外交についてというテクストで、「負けしろ」の重要性について書かれています。

真の国力というのは「勝ち続けることを可能にする資源」の多寡で考量するものではない。
「負けしろ」を以て考量するのである。

 以前にも氏がこうした表現をされているのを目にした記憶があったのですが、検索では見つけられなかったので、わたしの勘違いかもしれません。
 で、本題の方は実はこのお話とは直接関係なく、ふと「規範の負けしろ」ということを思いついたことにあります。
 
 例えば、交通法規で法定速度というのがあり、原付は30キロと定められていました。
 常識的に考えて、30キロで走る原付というのはあり得ない話で、本当に30キロ以下で走り続けていたら、迷惑ですしむしろ危険です。
 これは余りにも露骨に法が現実に合わなくなっている話なので、例えとして適切でなかったかもしれませんが、法の中には「本当に厳密に守ると立ちいかない」ものが沢山あります。おそらく、普通にわたしたちが暮らしているだけでも、無数の「違法行為」を冒していることでしょう。
 そうした「違法」を行う人々が、遵法精神に欠けるかというと、もちろんそんなことはありません。重要なのは、そこで破られている法について、本人が「知っている」場合ですら、彼には十分な遵法精神がある、ということです。
 そして普通は、周囲の人々も彼の「法への恭順」に疑いを挟んだりはせず、法の番人にあたる人々ですら、「見逃す」のが通常です。
 ここには「法と現実の間の乖離」があるわけで、少なくとも建前上こうした「乖離」は「よろしくない」もので、「是正されるべき」なわけですが、一方で「完全なる法と現実の一致」などナンセンスであることは、誰でもわかっています。
 重要なのは、こうした「乖離」あるいは「余白」が、単に致し方ない事情で存在するのではなく、規範には常に乖離がつきもので、かつ一定の乖離が欠かせない、ということです。逆に言えば、「乖離していても規範はいる」、正確には、「ちょっと乖離しているくらいの規範があってくれなければ困る」のです。
 つまり「大文字の他者への配慮」ということですが、これについては「或いは、然し」の「自由論」が極めて明快です。
 このテクストの中で取り上げられている古典落語の「鹿政談」では、鹿殺しが大罪であった奈良でうっかり鹿を殺してしまった善良な豆腐屋を、なんとか救済してやろうとするお奉行様が描かれています。

「ほう、ならば、その方、これを鹿じゃと申すか。ならば、奉行、相たずねるが、鹿ならば、角がのうてはかなわぬはず。この死骸に角があるか」
「これはしたり。ご奉行のお言葉とも思えませぬ。鹿は、若葉の候に相なりますると、若葉を食し、よって、角がホロリと落ちる。これを世に、こぼれ角、落し角と申す。また、落ちたる後を、袋角、世に鹿茸と唱え・・・・」
「黙れ! 何事をもって、その方がごときに、鹿茸の講釈をきこうや。〔…〕出雲! どうじゃ」
「はァ!」
「鹿か」
「はッ」
「犬か?」
「ハ、ハ・・・ハァ」
「鹿か。・・・・・・犬か鹿か」
「ウウッ・・・・・・イヌシカチョウ」

 誰がどう見ても鹿なものを、何とか犬と言ってもらわなければならない時、彼らが気にしているのは何なのでしょうか。

奉行がその視線を気にし、「犬だ」という証言が差し向けられたその場所にいる何者か、それが先ほどの話で言う「オトナ」であり、<他者>である。それは具体的な誰かではないが、圧倒的に私たちを支配している。社会制度や権力者に重ねあわされて現象することは多々あるはずではあるが、それらに還元されはしない。奈良奉行は、ただ直接に彼の権限によって罪人を許すことはできない。<他者>の目を盗んで、<他者>には「犬だ」と思い込ませておいて、豆腐屋を逃がしてやらねばならなかった。その場にいた人間は誰もが、その死体が鹿のものであることを知っていたが、<他者>にだけは知られては不味かったのだ。

社会のルールには在る程度の遊びが、グレーゾーンがある。法の運用は適度に厳密さを欠いているべきだ。われわれはこの事実を、さしあたって賞賛も否定もするつもりはないが、ルール違反が密やかに行われることは、「健全な社会」にとって極めて重要だ。規則違反はこっそりやってもよい、だが少なくともうわべだけは従順なふりをしなさい。

 最近のネット上では、何気なくちょっとした軽犯罪、例えば誰のものだか分からない会社の置き傘を拝借してしまっただとか、違法な速度で車を運転しただとか、そうしたことを堂々と書いてしまって、結果「炎上」に至るケースがあります。
 「ちょっとした規律違反」について、仲間内で話題にする程度だったら、笑い話で済んでいたことでしょう。「炎上」の過程で彼または彼女を攻撃した人物も、日常生活で似た場面に出会ったり、自分が当事者となる経験があったかもしれませんが、そういう場合ならさほど目くじらは立てなかったはずです。しかしそれが、時にリンチに近い攻撃の引き金になる。
 何が違うのかといえば、誰の目にも触れるパブリックな空間で「堂々と」語ってしまったことです。こっそりならいい。しかし「お天道様の下」でやられてしまった以上、黙って見過ごすわけにはいかない。正確には「お天道様」に見過ごすところを見られてしまうと、今度はこっちがヤバい。そういうことです。
 
 最近「空港の税関で自分のほうからあえて別室へ行く方法。空港税関で手荷物について正直な考えを言ったらこうなった!」という記事が話題になりました。空港の税関で、何も疚しいことがないのに、わざわざ自分の方から「自分では申告すべきものかどうか判定できない。全部調べてくれ」と申し出たらどうなるのか、という試みを実践してしまった人のお話です。
 やっている当人は全部わかった上で敢えて試み、あるいはちょっとしたネタとしてやっているのでしょうが、もし本気で「空気を読めず」これをやる人がいたら、これは大変迷惑な話です。原付で30キロで走るようなものです。
 規範というのは、規範とそこからの乖離、二つ合わせて一つなのです。明示的な規範だけ見ていては、規範の本質を見失うことになります。
 「乖離しているなら規範を直せば良い、というか規範なんか要らないよ」というのは片手落ちで、そんなキツキツに規範を作ってしまうと、ちょっとした現実の変化にも耐えられず、実際上はちっとも「現実的」ではありません。
 そして、もう一つ面白いことを付け加えれば、たとえ上辺だけだと分かっていても、わたしたちは「立派な規範」が欲しいのです。人間すべてが分かっていても、「お天道様」の前でだけは、格好つけたいのです。これがどれくらい必要か、というのは、個人や文化間で幅があるものですが、「立派な規範」が掲げられなくなったら不安で仕方がなくなり、立派じゃない規範すら守られなくなってしまうかもしない、という人は、決して少数派ではありません。わたしたちの生きる生とは、狭義の「現実」と「フィクショナルなもの」を合わせた全体であって、「現実的」ではない理想が掲げられている、その全体が「現実」なのです。
 つまり「規範の負けしろ」が大事で、逆に言うと「負けしろがあるくらいの規範」がなければいけない、ということです。
 
 例によってイスラームに引きつけてしまって恐縮なのですが、わたしには時々、イスラームの「厳しいユルさ」と言いたくなる時があります。イスラーム発祥地から文化的に遠い日本では、やたら厳しい戒律のことが話題にされる傾向がありますが、はっきり言って、イスラームがそんな厳しくオソロシイものだったら、あのいい加減なアラブ人が守っていられるわけがないでしょう(アラブ人の皆様すいません)。日本の会社の就業規則の方が余程厳しいです。
 わたしがイスラームに良い意味で「ユルさ」を感じるのは、「規範の負けしろ」が広い、あるいはこの部分がよく鍛錬されている、ということです。もちろん、負けしろはただ無闇に広がっていくとただの「言行不一致」になってしまうので、広ければ良いということはありません。広すぎても狭すぎてもダメです。この「塩梅」というのは、一朝一夕に出来上がるものではなく、長年かけて熟成されるもので、イスラームはなかなか「いい塩梅」だなぁ、と思うことがままあるのです。
 入信するはるか前に、はじめてクルアーンを読んだ時は、正直ちょっと笑ってしまったのですが、クルアーンの聖句には、さんざん厳しいことを言っておきながら「でもやむを得ない場合は仕方ない。アッラーは寛大である」とか「過ぎてしまったことは仕方ない。アッラーは至上である」みたいなフレーズが沢山出てきます。「過ぎてしまったらええんかいっ!」と思わずツッコみたくなります(念のためですが、わたしは大変不真面目な信徒ですので、良い子の皆様は真似してはいけません)。
 実際の信仰実践の中でも「それは本当はハラームだけど・・まぁアッラーは許して下さるよ、インシャアッラー」みたいな場面がよくあります。これを逆手に取って「アッラーの慈悲は広大無辺である」なんて言ってやりたい放題する輩がアラブ世界などだと現実に存在するので、これは頂けませんが、全体として見ると「いい塩梅の負けしろ」です。
 こういう部分は、外から見ているだけではなかなか分からないもので、また大文字の他者ならぬアッラーへの配慮はとても大事ですから、中の人もわざわざいい加減なところをアピールなどしないし、してはいけません。特に、ムスリムが多数派の地域のムスリムが、外から来た人に尋ねられた時には、目一杯見栄を張って、すごい厳格で敬虔な暮らしを守っているかのように一席ぶってしまうことがあるので、それをまんま信じてしまうと、ちょっと実態とズレている、本当に面白いところとは違う話になってしまう、ということがあります。
 逆に言うと、そういう時に「格好つけ」られないようでは、「立派なムスリム」ではありません(繰り返しますが、わたしは立派ではありません)。そして、誰も見ていなくてもアッラーはいつもご覧になっていますから、いつも程々には格好つけないといけないし、程々にならアッラーもお許しになられるでしょう、インシャアッラー。
 
 日本で生まれ育った多くの人々は、シューキョーというのは神聖な特別な領域に押し込まれているものだと思っていますが、こうした「法とその運用」というのが、本来は非常に重要な役割だったはずです。この法は、領域国民国家の法のように、「全体を覆う」ものですが、その多い方は網をかぶせるようなもので、ビニールでぴっちりくるんでしまうものではありません。線と線が結ばれて、限界のラインははっきりしていますが、その間には何もない部分がポコポコ空いていたりします。
 逆にここから考えると、「特別な体験」のようにとらえられがちな信仰も理解し易くなるはずです。というのも、何も信じていないつもりの人も、そこでは何かを信じているからです。信じられてしまっている虚像、それを偶像と呼ぶのであって、イスラームとは、そうした「神」を排除することが一つの柱であるはずです。個人的には、既に信じてしまっている、そして何も信じない状態にはなれない、という気づきが、イスラームに近づく一つの契機でした。1
 
 「信じてしまっている」ことと「負けしろ」というのはつながっていて、つまりお奉行様が必死でメンツを立てようとしているような、そういう営みが良い「負けしろ」を作るのです。
 そして最後に、急にすごいことを書きますが、どんどん偶像をとっぱらっていって、最後に見ている者というのは、本当にいるんですよ。このサンボリックなものの「実在」を「信じる」には、「現実界のかけら」が必要で、それはつまり、奇跡です。奇跡というのは、「すごい体験と信仰」で書いた意味での奇跡で、言わば出会いということです。
 ほんの一瞬でも、確信を得てしまうような、言わば狂気の入り込んでくる瞬間があって、その一瞬を大切に握っていれば、信仰というのはちゃんとリアリティを持てるものです。
 ここから先は、また別のお話になってしまうので、今回はやめにしておきます。ただそういうリアリティは、別段「限られた人」にしか得られない特別なものではありませんよ、実際上ありふれていますよ、ということだけ言っておきます。

  1. 選ばないことでは無宗教にはなれない []