こんなエントリが話題になっていました。
日本人は自らの宗教性にいいかげん気付くべき – 狐の王国
良識あるものは自らの倫理観を問いなおせ。それが信仰でないことなどほぼ無いことに気付くべきだ。一つの宗教にきちんと向かい合うことも必要かもしれない。仏教でも神道でも基督教でもいい。
そうして自らの信仰に自覚的になることも、きっと必要なことだと思う。
細部については異論もありますし、またここで言う「宗教」とわたしたちの言うところのالدينは同一ではないと考えていますが、自称「無宗教」の日本人の多くが、自分で思っているよりはずっと「宗教的」、という点は、その通りでしょう。
このブログで書いていることの多くもそうした前提から出発しており、「小っさなムスリムに話しかける」、「音楽と信仰」といったことも、この系譜に属するものです。
件のエントリは、「宗教性」そのものより、それに対して「無自覚」であることに焦点をあてたものです。
その「無自覚さ」と深く結びついたことかと考えているのですが、個人的に、「少なからぬ日本の人たち」に願いたいこととして、二つのことがあります。
「他人に信仰を押し付けるな」と「他人の信仰に軽々に立ち入るな」ということです。
日本人と言っても色々な人たちがいますから、十把一絡げにするのも危ないのですが、概ねこの国の文化は、あまり人のことに立ち入らず、また人の介入も受け付けないものです。もちろん、やたら何にでも鼻を突っ込むのはどんな文化圏でも問題な訳ですが、閾値となる距離というのは文化圏によって異なります。
例えばエジプト人は、良く言えば義侠心に溢れ、悪く言えばおせっかいな傾向が強く、日本であればプライバシーの枠をとっくに乗り越えた領域まで、お互いにズカズカと入り込み合います。人と人との距離が非常に近く、常に他人と一緒の空間で生きることに慣れきっていますし、それが当たり前だと考えています。地下鉄で隣り合った人と話すのも普通ですし、下手をすると「ウチの倅の嫁に来ないか」くらい突っ込んでくるオバちゃんまでいます。
これに比べれば、日本では人と人の距離がずっと遠く、「迷惑かけないから迷惑かけるな」という暗黙の圧力があります。もちろん、良い点と悪い点がある訳ですが、それはともかくとして、あまり立ち入らないのがスタンダードな訳です。
にも関わらず、なぜか信仰の領域になると、ものすごく図々しく礼儀知らずな人が大勢います。というより、過半数がこの部類に入るかと思われます。
といっても、「他人に信仰を押し付けるな」については、多くの場合はそれを「信仰」と自覚していないのでしょう。「選ばないことでは無宗教にはなれない」で書いた通り、「デフォルト無宗教」などというのは、極めて限局されたファンタジーに過ぎないのですが、この辺にまったく無自覚な人が多いです。そのため、自分が何をやっているかも分からないまま、「自称無宗教な曖昧な精神性」を平気で押し付けてくるのでしょう。それはあなたの信仰であって、わたしの信仰ではない。
もしこれが逆に、たとえばわたしが、さして親しくもない相手にイスラームの素晴らしさか何かを滔々と語ったとすれば、良くてキチガイ、悪いとテロリスト扱いです1。似たようなことを平然と行なってしまっていることを、それこそ「日本文化」的な恥と知って頂きたいです。
「他人の信仰に軽々に立ち入るな」ということについても、おそらく件の無自覚性、信仰一般に対する経験や知識の無さ故のことでしょう。他人の信仰実践について平然と立ち入る人がいます。しかも自分とは違う宗教の信仰者に対して行うのですから、驚くべきことで、状況によっては非常に危険なことです。例えば、非ムスリムの日本人が、日本人ムスリムに対し、斎戒や礼拝といった具体的信仰行為についてやたら立ち入ってくるようなことです。
何にでも鼻を突っ込むエジプト人でも、この辺は非常にデリケートな問題で、家族などの非常に近しい距離の相手でなければ、軽々と口を出すものではありません。それが礼節ですし、また主と人間の関係こそが第一義という信仰の本分でもあります2。
加えて、そんな馬鹿なことをしない方が「身のため」でもあります。もしもコプトのエジプト人が、親しくもないムスリムのエジプト人に対して「お前はちっとも礼拝していないが、それでもムスリムか」などと口走ったら、どんなとんでもないことになるか分かったものであはりません。下手をすれば路上の喧嘩から宗派まるごとの大乱闘にでもなりかねません。
別にエジプトをスタンダードにする気は全くないのですが、なにせ国民カードにも宗教が記載されているくらいですから、信仰があるというのは当たり前のことで、「信仰心が弱い」というのはそのまま「ロクでなし」と一緒、まして無宗教だの無神論者だのとなれば、ニコニコ笑いながら人殺しでもしかねないサイコ野郎か何かの扱いです。一方で、信仰実践の形というのは、人によって様々です。それでも、各人がその人なりに正しい考えるやり方で生きようとしているのです。これに対し、「お前の礼拝の仕方は間違っている、お前は信仰心が足りない」などと言えば、どんな危険な発言か分かるでしょう。一万歩譲ってその礼拝の仕方が間違っていたり、本当にその人の信仰心が弱かったとしても、それは主とその人の問題です。誤りがあれば主が裁かれるのですから、放っておけば良いのです。まして他人に対し軽々にタクフィール(不信仰者宣告)をするのは、それこそハラームです。
少なからぬ日本人が平然と他人の信仰に立ち入るのは、こうしたクリティカルな空気がないからでしょうが、それは端的に自らおよび多くの人々の暗黙的信仰心に対して無自覚であるというだけです。現代日本的文脈でこれを何に例えれば分かりやすいのか、ちょっと難しいところですが、例えば他人の子育て方針に対して口出しするのは、かなり親しい間柄でないと慎重になるべきでしょう(子供がいないのでこれで適切か自信がないです)。
上に書いた通り、「他人に信仰を押し付けるな」「他人の信仰に軽々に立ち入るな」というのは、人との距離が遠く、立ち入った振る舞いを良しとしない「日本的規範」からすれば、むしろまったく当たり前に受け入れられることかと思います。にも関わらず、厚顔無恥な行いがうっかりまかり通ってしまうのは、やはり件の「無自覚性」に由来するのではないでしょうか。