偶像崇拝の否定による以外に、とりたてて理由も見つからない

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 朝日新聞社説 たばこ値上げ―喫煙者のためにもなる : asahi.com(朝日新聞社):社説 – finalventの日記

 私はこの発想、「喫煙者のためにもなる」はファシズムへの小さな一歩だと思う。
 喫煙者は値上げを望んではいない、がその健康には役立つ。つまり、おまえの幸せは私(国家)が知っているという構図だ。ろくでもない。

 上のエントリは、思いつきのキッカケになっただけで、この内容自体については特段異論もありません。極常識的なパターナリズム批判でしょう。
 ただ、これが「ファシズム」(この文脈で限れば単に全体主義と言ってもほとんど一緒だが)の一歩となって、それが何かいけないのか? という思いはあります。わたしについて、わたし以上に知っている(と想定される)、わたしの心身を管理する権限を持つわたし以外の者、そういう者は、もちろん「存在し」ます。少なからぬ現代日本人がこれを否定するでしょうが、「わたし」というのは一番最後に出てきたもので、最後の審級を司るに足る存在でもないし、わたしは常に、わたし以上の何かとのエロティックな関係の中で世界に係留されています。ただ、これについては今回は詳述は避けます。
 とりあえず、そうした「わたしについてわたし以上の権限を持つもの」があるのは構わないと考え、ファッショについてもかなり魅力を感じながら、なおこれを否定する理由は、イスラーム以外には何もありません。
 簡単に言って、「わたしについてわたし以上に知っている(と想定される)、わたし以上の権限を持つ者」は、

①存在しない(わたしが至上である。個人主義的、自我心理学的)
②存在する、諸々の偶像=並び立つもののあり得るもの1、として
③存在する、唯一の神として

 と考えることができます。
 言うまでもなく、ナショナリズムとは②であって、イスラームは③です。国家の(優生学的!)パターナリズム的振る舞いに疑義を挟むのは、ただわたしの身体性に介入する権限を神にのみ認める限りにおいてであり、それ以外の理由によるものではありません。
 
 蛇足ながら、このうち、①と②の果たしてどちらがイスラーム的に「マシ」なのかは、ちょっと興味を惹かれるところです。①というのは、実は偶像神を意識化・形象化できていないだけ、②と同根でかつより質が悪い、とも言えるのですが、実際上は、丁度三角形のような関係にある。
 個人的には、②を叫ぶ人はまだ①よりマトモに映りますが、これは単なるわたしの趣味でしょう。

  1. 並び立つもののあり得るものとは、実際に何かが並び立っているかどうかではなく、原理上の可能性として想定できる、という意味。物質的・実際的な可能性ではない。 []