アフマド・アル=イシーリー『二冊目』翻訳アップ開始

 「イシーリーさんに会う」で書いたように、イシーリーさんの二冊目の著書、そのまんまタイトルも『二冊目』の翻訳を開始しました。例によって下訳に毛の生えたような状態でお気楽に順次アップしていきます。

二冊目

 「よく言ってくれた!」という内容が沢山ありますが、現時点で一番最近アップした荷を運ぶロバも相当面白いです。ご利益宗教批判ということは、大分以前にわたしも散々ブツブツ言っていたのですが、こういう(わたしにとっては)至って当たり前のことを当たり前に言ってくれる人がいるのには救われます。もちろん、信仰の(あるいは信仰じゃなくても似たようなことは言えるのですが)形式的側面が軽視されることによる弊害、というのは当然あって、「スピリチュアル」にヤラれがちな日本ではむしろ逆のバランサーをかけてやる必要もあるのですが、とりあえず言っている内容は真っ当です。エジプト人には正座して聞いて頂きたい。

 先のエントリでも書いた通り、言語的に前より少しトリッキーになり、内容も込み入ってきたので、外国人にとっての敷居は多少上がりましたが、基本的には平易な内容の本です。宗教的な話題を多く扱ってはいますが、いわゆる宗教書のスタイルでは全くなく、「一ムスリムの書いたエッセイ集」です。
 彼の考えすべてに賛同する訳ではないのですが、結論的部分よりも方法・スタイルの面でわたしは大変共感しています。比べたら失礼ですが、わたしがここで書いているものと、ノリ的には比較的近いのではないかと思います。
 イシーリーさんの考え方、スタイルというのは、現代日本で生まれ育った人間にも非常にストンと落ちるものです。少なくともわたしにとっては「自然」です(少なからぬエジプト人にとっては「自然」ではないだろう)。まったく当たり前のやり方にも見えますが、扱ってる話題、発言されているコンテクストを含めて考えると、かなり前衛的な要素もあります。
 多くの日本人にとっては、唯一「イスラーム」が異物として映るかと思います。この「異物」は、ほとんど本全体を覆い尽くしているので、違和感などと言って済ませられるような要素ではないのですが、そこが有益です。なぜなら、彼の語るイスラームは、宗教家や専門家の語るイスラームではなく、多くの日本人にとっても違和感ない「合理的」思考から連続的な形で示されるものだからです(もちろん、少なからぬ「無神論者」にとっては到底「合理的」とは言えない部分も沢山あるが、固定観念からは出発していない)。わたし自身が試みていることと同じですが、「遠い国の変なシューキョー」ではなく、既に自分たちの中にある当たり前のものとして「内なるイスラームを発見する」には、良いガイドになる筈です。
 当然ながら、多くのムスリム(日本人ムスリムを含む)にとっては面白くない内容も沢山含まれていて、イスラームを全然知らない日本人が、これだけ読んで理解した気になってしまうのは危険です。しかしそのリスクを差し引いても、訳す値打ちはあると信じています。イスラームについての予備知識があまりない方は、併せて一般の概説書や、日本人ムスリムの著書などを読まれるとバランスが取れて良いでしょう。
 
 イスラームについて書いてはいるものの、今頃気づいたのですが、彼は基本的に「哲学者」なのです。「神学者」ではありません。
 もちろん彼は、基本的にテレビ・ラジオの人で、いわゆる意味での哲学者でも神学者でもないし、学者でも研究者でもありません(そういうところがまた個人的に惹かれるのですが)。ただ、思考の様式が語の真の意味で「哲学」です。哲学というのは、ある意味宗教の最大の敵であって、近代自然科学などより遥かにリスキーな存在なのですが、わたし自身の脳みそが基本的に似た形に出来ていることもあり、非常に素直に読めます。
 そしてこういう、「哲学」の方法をとってイスラームを語る、という本は、ほとんど見かけることがありません。もちろん、昔のイスラーム哲学者の著書や、それについての研究書などはあるのですが、永井均さんではありませんが、「子供の哲学」的なスタイルをもって語っている本というのは、他で見たことがありません。彼は哲学の専門家でもないので、永井均さんと比べたらまったく失礼なほど、厳密な考えをしている訳でも何でもないのですが、根底にある頭の使い方はかなり近いものがあります。
 最大の敵にもなる「哲学」の脳みそをもった人が喋っているので、それは当然、敵視する人もいるでしょう。「哲学」というのは、ある程度余裕のあるインテリの道具的なところがありますし、貧しく学のない市井の信徒や、彼らの心の支えとなっているシェイフたちから叩かれても不思議はありません。実際、そういう話も何度も聞きました。
 ただ、読んでもらえれば分かる通り、彼はそういう自分の立ち位置も分かった上で、市井の信徒のやり方を否定することなく語っています。それも分からない人が大勢いるのが現実ですが、彼自身は別段偉そうにしているとか、「上から目線」ということはまったくありません。まぁ、暮らしぶりは確かに上流階級ですが、お城に篭ってふんぞり返っているどこぞの大臣ではなく、街に出て市民と会話するのを商売にしている人ですから、よくよく一般市民の感覚というのは理解しています。
 
 こういう頭の使い方をしてものを書く人というのは、日本であれば別に珍しくないのですが、彼らの多くは信仰を持っていませんし、信仰というものが何につけ絡んできて、自分の「哲学」っぷりとどう仲裁させていくのか、ということで悩んだりはしていません。その点、イシーリーさんは、わたしにとっては貴重なサンプルなのです。「ムスリムでかつ、こういう考え方をする人間が、自分の中でどう信仰を位置づけ、また他人と関わっていくか」ということを考える上で、参考になることが沢山あります。
 日本人ムスリムは、なにせ絶対数が少ないですから、この翻訳がどれほど役に立つのか分かりませんが、率としてはエジプトよりも余程「響く」人が多いのではないか、と予想しています。日本の方が平均的な教育水準が高いですし、「近代的」な思考様式にもイヤというほど浸かっていますから。
 本音を言うと、日本人ムスリムよりも、ムスリムではないけれどちょっと興味を持っているくらいの日本人が、イスラームを発見する契機になったらいいなぁ、とか考えています(と言うと、「こんなもんイスラームじゃない!」という人に怒られそうですが)。いや、もう釣られちゃってる人はどうでもいいって意味じゃないですけど、わたしも釣られちゃった側なので、勘弁してやって下さい。
 
 先のエントリにも書いた通り、この本は八割方アーンミーヤで書かれていて、読んでいるとイシーリーさんの喋る姿が浮かぶようなフランクなノリなのですが、翻訳してしまうと、内容が内容だけに原文の印象より大分重い雰囲気になってしまいます。せめてもの抵抗として一人称を「僕」にしたりしてみたのですが、あんまり砕けた日本語にすると、それはそれでどこかのミュージシャンのインタビュー記事みたいになってしまうし、悩んだ末にこんな文体に落ち着いてしまいました。もうちょっと軽くてポンポン弾むノリに脳内変換して読んでやって下さいませ。



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