利子、金の子牛、不滅の属性を与えられながら忘れられたもの

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 今日西洋社会に静かに蔓延っている「イスラーム・フォビア」に迎するわけにはいかないし、思想・行動的傾向を安易に信仰に還元してはならない。これは確かに、最初に持ってこなければならないイクスキューズではあるのだが、一方で「敵はテロリストであり、ムスリムではない」と叫ぶ大統領閣下の言葉には白々しさがある。
 この白々しさ、嘘臭さがの由来は沢山あるのだが、重要なものとして、相対主義の示す決定不可能性と、これに対する反動としての「原理主義」的態度がある。
 大澤真幸などが平易に指摘しているところだが、例えばナイーヴなオリエンタリズムを振りかざすような自文化中心主義やコミュニタリアニズムは、形式の抽象と文化相対主義により、多文化主義という(お題目の)形で一旦解除=去勢されるが、その相対主義的態度自体がひとつの選択であるが故に、結局「ポストモダン的決定不可能性」自体の中に、開き直りにも見える素朴な原理への信奉が回帰してくる。
 科学論などでも同じことで、素朴実在論的1が実証や反証といった「語らい」の次元に読み直され、最後にはトマス・クーン的な世界観により相対化されても、パラダイムなる概念自体は相対化されない。すると、「パラダイムというパラダイム」については、決定不可能性という被決定性(!)を振りかざすより他にない。

 話を戻すと、「敵はテロリストであり、ムスリムではない」というお題目は、アファーマティヴ・アクション的思想に彩られたアメリカン・ドラマで、登場人物に各人種が適度に配分されるような、「何も言っていなさ」から抜け出られない。この言葉が繰り返されれば繰り返されるほど、「テロリスト」という「我ら共通の敵」を指す言葉がますます空虚になり、かえってムスリムを指すためのポインタであるかのように聞こえてくる。
 こうして大統領閣下が礼儀正しく断り書きをする一方、エジプトの政府系新聞に「文明の衝突」を肯定するような記事が見られたりする(もちろん正義は「イスラーム文明」にあるのだが)。件の記事論調のナイーヴさもまた肯定することはできないが、少なからぬ人々、とりわけ「やられる側」は、とっくに「敵はテロリストであり、ムスリムではない」の白々さに気づいていて、むしろ「敵は我らムスリムである」と引き受けてしまっている感がある2
 何度も言うように、そちらに開き直ることもやはりできないのだけれど、少なくともそこには、大統領閣下の言葉には欠片もない真理の断片がある。
 それは、確かに何か、相容れない原理がある、ということだ。
 必ずしも狭義の「宗教」にこれを還元する必要はないし、また本当に相容れないのか、衝突しながらも変化を遂げる可能性のないものなのかも、言い切れない。それでも、原理的な対立であり、かつ神=他者の位置づけという、その言語経済の核の部分で、何かがすれ違っている。

 この違いを「文化的差異」と読み違えてしまうと、途端にまた相対主義のトラップに嵌ってしまう。「文化」などという、ジェントルマンスポーツ的なお上品な言葉でお茶を濁してはならないのだ。
 ではいかなる表象が適切なのか。
 たぶん、お金を考えるのが一番わかりやすい。
 イスラームが利子を認めず、一方で利子に動かされる原理が世俗化し神を排除していることは、偶然ではない。
 世俗社会では「金が神」ということだが、これは「拝金主義」を批判しているのではない。そんな安い道徳的水準ではなく、わたしたちの言語経済を成り立たせる骨組みが違う、ということだ。金が神なら、信徒が神をあがめるように金が重んじられるのは当然で、むしろこれは肯定しなければならない(彼らは彼らの伝統に忠実なのだ!)。むしろ「キチンと崇めることができていない」ことに注目する必要がある。
 危険なのは、この神が神として認められていないことだ。
 金は神のように振る舞う。永遠不滅で増殖するが、誰もそれを文字通りの神だとは思わず、ほとんどの人は「拝金主義」に対して一定の嫌悪感や罪悪感を抱いている。それは紛れもなく神の属性を継いでいるのに、神として遇されていないのだ。
 世俗社会とは、神のない世界ではなく、「神たるものを神として扱えない」世界だ。
 だからこそ、「宗教アレルギー」が世俗社会に蔓延るし、何であれ神が大きな顔をすることにヒステリックに反応するのだ。この防衛は、外部にある「宗教的世界」への反発ではなく、自らの世界に潜伏する神への恐怖に由来している。
 繰り返し言う。問題は「拝金主義」ではない。むしろ金を、きちんと拝めていないことだ。
 否認された神はどこに行くのか。もちろん、消滅したりはしない。抑圧され、モンスターとなって回帰する。それが高度産業資本主義が世界に対して行っている破壊だ。

 確かに、原理がぶつかっているのだ。ぶつかっている一方が、原理を原理として認められないというだけで。
 正確に言えば、その原理としての性質が抑圧されたからこそ、諸原理が致命的に衝突しているのである。
 だから、一周回って、大統領閣下の言葉にはやはり逆らわなければならない。
 利子は悪であり、もし利子を認めるなら、代わって貨幣が利子の分老化しなければならない。神を神に返すのだ。顔を上げて拝むことすらできない後ろ暗い「金の子牛」から、透明で唯一無比の神へと。つまりは、いかなる世俗的権威も還元されず、生み出さず、人の人に対する絶対的優位を否定する神へと(それがタウヒードということだと、わたしは考えている)。
 この神は、残りの分を「カエサルに」返したりはしない。すべては神に返る。
 なぜなら、この神は唯一絶対にして透明であるがゆえに、結局のところ、どこにも返らず、地上に何の権威も作り出さないからだ。

  1. もちろん、そんな「素朴さ」がいずれかの時間・空間に実在したわけがない。「素朴さ」が遡及的に想定される、という構造はさまざまな領域で金太郎飴的に反復されていて、「素朴さ一般」として考えると、これ自体とても興味深い。多分わたしたちは、最初から最後まで、あまりにも言語を操れる大人なのだ []
  2. そもそも「敵はムスリムではない」と、否定の形で分節してしまった段階で、もう十分にムスリムは敵なのだ []