『フサイニー師「イスラーム神学50の教理」―タウヒード学入門』マフムード・アブ=ル=フダー アル=フサイニー 奥田敦

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4766408209 フサイニー師「イスラーム神学50の教理」―タウヒード学入門
マフムード・アブ=ル=フダー アル=フサイニー 奥田 敦
慶應義塾大学出版会 2000-09

 砂を食むような辛い読書を想定して手に取ったら(ごめんなさい)、思いのほかエキサイティングで楽しかったです。
 十六世紀末から十七世紀の西洋哲学のテクストを読んでいるような気分になりました。近世哲学に馴染みのある方には、非常に取っつき易いと思います。

 一つ個人的に楽しんだポイントを取り出すと、自由意志に関する部分です(自由意志という言葉は使われない)。
 まず、人間の行為について、以下のような分類が示されます。

選択的行為:
 その人間の力能、具体的行為、両者をつなぐ連繋(具体的行為の獲得)の三つの軌跡أثرがあり、すべて神をもととする。
非選択的行為:
 においては、その人間の力能と具体的行為の二つのみが、神による軌跡として存在する(連繋は存在しない)。

 つまり、いずれにおいても、人間自らが軌跡を引き起こすことはできないわけです。
 しかし、人間は選択的行為と非選択的行為の区別を知っており、前者においては自らの選択を意識することができ、この区別に従い、審判の日の清算が行われる、とされています。

 至高なる神が必然として意志を持つということから、被造物の存在は「因果関係」によるものでも、「事物の本性」によるものでもないことが引き出される。(・・・)至高なる神は、薪が火に触れたときに薪に燃焼を作り出す。

 だが、スンナの徒には、表面的にも本質的にも純粋な天命(がすべてを決定する)という決定論者の言う決定論的な天命の主張は、受け入れられない。(・・・)主こそは、すべてのことがらの創造者であり、その行為において彼にはいかなる協働者もいない。人々は、表面的(な感覚の部分)で、選択を確定し、たとえば「書く」という選択的な行為と、「震える」という非選択的な行為とを分けるのである。(・・・)スンナの徒にあって、「天命」と「選択」は矛盾しない。なぜならば、この二つはそれぞれのための異なる場所を持っているからである。前者の場所が「心」であり、後者の場所が「外的な感覚」である。主は「選択的な視角」については、《あなたがたは、あなたがたが耕す(畑の)ことを考えたか》(出来事章63)という御言葉で中止を払い、「天命的な視角」については《あなたがたがそれに種を蒔くのか、それともわれが種を蒔くのか》(出来事章64)という御言葉で注意を払っている。こうして「天命的な視角」は、イスラームの教えにおいては信仰すなわちイーマーンの柱であり、「選択的な視角」は、方すなわちイスラームの柱である。

 人間の意志と力能は、日常的な意味では事象の原因ですが、その原因を結果に結びつけているのは常に神の創造であり、実際上は原因ではありません。神か諸原因のもとで結果を創造するのです。
 しかしながら一方で、感覚の水準においてはわたしたちは選択を意識できる(だからこそ日常的には選択を原因と考える)のであり、法的水準はここにおいて適用される、ということです。

 天命と神慮を信じることは、人がシャリーアに従うことと抵触しない。なぜならば、人間は状況にあった法を課せられることによって、すべての瞬間において法の「名宛人」だからである。

 これは、すべてを天命に帰す決定論者の言い分と、人間に生起する力能を認める自然主義者やムアタジラ派の中間と言える立場です。

 この議論の面白さは二つあって、一つは神が不断に世界に介入していることと、もう一つは、それにもかかわらず法的領域、つまり人間の行為が裁定される領域があることが、感覚から語られていることです。
 このうち前者について言うと、前提として世界を神が創造したとして、その上で「神様は世界を創られたけれど、その後は放ったらかし」というのと「世界の運動には常に神が介在している」という二つの立場があり得るわけです。前者の立場を採るとしたら、創造後の世界に運動が存在するのは、被造物の中に原因があるから(「仕込まれている」)ということになりますが、これは汎神論ととられ批判の対象になり得ることは、中世から近世の西洋哲学を眺めても明らかです。そこで、スンナの考え方としては、被造物の中に原因はなく、それらを契機として神による不断の創造が行われる、と捉えるようです。
 ゲーリングスの機会原因論のようで、非常にスリリングです(ちょっと違いますけど)。
 わたし個人は、タウヒードの考え方が、わたしの単独性、世界の唯一性という、ちょっと近代思想に被れた脳みそから出てくる発想と被って感じられているのですが、常に神が介入している、という感覚は、この世界の唯一性の危うさ、というものと背中合わせに感じられ、ストンと落ちるものがあります。
 といっても、日常感覚として自然、ということではなく、そう捉えることが、わたしにとってのイスラーム、「近い神」という感覚とより親和する、ということです。

 これに関連した注釈で、クルアーンにおけるアッラーの「意志」を、以下のように分類しているのも興味深かったです。

1 「望み」、「実在的意志」:望まれたことが即実在となる意志
إِنَّمَا أَمْرُهُ إِذَا أَرَادَ شَيْئًا أَنْ يَقُولَ لَهُ كُنْ فَيَكُونُ
何かを望まれると、かれが「有れ。」と御命じになれば、即ち有る(36-82)

2 シャリーア的意志、法的意志:法的判断に関わる意志
يُرِيدُ اللّهُ بِكُمُ الْيُسْرَ وَلاَ يُرِيدُ بِكُمُ الْعُسْرَ
アッラーはあなたがたに易きを求め、困難を求めない(2-185)

 アッラーの意志がすべて即実在だとしたら、その間に法的領域はなくなってしまうわけですが、丁度人間にあって感覚としての法的領域が残るように、アッラーにおいても「意志すれど実現はしていない」領域が確保されているのが面白いです。

 なんだか、信徒の端くれの分際で面白いだの何だの気楽な書き方をしてしまってすいません。
 一つ難点を言えば、本書の中心となるフサイニー師の講義に入る前の、著者によるテクストの中で、「科学的イスラーム」というか、「イスラームは近代科学によっても証明されている」という、本ブログで何度か批判した文脈での語りがあり、これは個人的には受け入れがたいです1
 こうした考えにより、より安らかな信仰生活を送れる人というのもいらっしゃるでしょうし、別段それも否定はしませんが、考え方として倒錯的だと思いますし、少なくともわたしにとっては、胡散臭く見えるだけで信仰にとってちっともプラスにはなりません。

  1. 「科学的イスラーム」の問題と理神論等参照 []



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