中田考先生の『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』について続けます。
第二章「イスラームと現代社会」から、イスラームと世俗国家について。
存在する社会集団と個人の多様性を暴力的に抹消し、無理やりに均質化することによって成立した「国民国家」は、「国民主権」、「一般意思」等のフィクションの下に、「国民」の集合体、総意の化身として、人格化、神格化される。
アメリカの宗教社会学者ユルゲンスマイヤーが指摘する通り、世俗的ナショナリズムは「信仰の表現」であり、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種である。
地上における不死の神「リヴァイアサン」たる西欧国民国家概念ほど、イスラームの世界観から遠いものはないが、それは範疇をまったく異にする、という意味ではなく、むしろ範疇を同じくして対極にあるものなのである。
西欧近代主権国家概念における主権は、そもそも国内的に最高権力を、対外的に独立権力を意味する。つまり主権国家の概念は単独では存在しえず、複数の主権国家が互いに「独立」を承認し合う国際システムの存在を前提とするのである。(・・・)
イスラームにはそもそも国家の概念が存在しないことはすでに述べた。イスラーム世界各地の旧宗主国からの「独立」とは、イスラーム世界の自立/自立性の回復などではまったくなく、むしろ西欧的国際システムの承認に他ならなかった。
ネイションという仮構と国民国家の成立について、個人的にオススメなのは柄谷行人の『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』ですが(ただし結論の方向性には同意しない)、近代における国民国家ファンタジーの成立において、その外部として作り出されたのが「ユダヤ人」です。
「ユダヤ人とアラブ人」の対立の構図は問題の本質を隠蔽するヴェールである。
近代「国民国家」が国民の殉死、献身を求める「偶像神」であることはすでに見た。ユダヤ人とは、この国家という「偶像神」に全面的忠誠を捧げない「非国民」として、「ユダヤ人」の名をつけられ、それぞれの祖国から排除された存在である。
ユダヤ人とは、西欧「民族主義」の矛盾であり、西欧の生み出した闇である。
ある枠組みの成立のためには、このフレームに対する外部が必要です。カテゴライズには「ゴミ箱」がなければなりません。シオニズムとは、外部として捏造されたファンタジーを内部の枠組みに従って地上に現出させようとした倒錯に他なりません。
この倒錯は、ヨーロッパがヨーロッパであるために必要とした「作られた恥部」への自己愛的贖罪であり、同時に「イスラーム世界の近代化」という、これもまたヨーロッパ的な幻想の結節点として機能しています。
シオニズムの力は、このような様々なエロティシズムの交差する場所としてイスラエルが作られたことに由来します。
イスラーム世界の「内なる植民地支配」の事実を隠蔽するために欧米がイスラエルを必要とする一方で、イスラーム世界の抱える構造的矛盾、文化、社会、経済、政治、山積する問題矛盾から目を逸らさせるためにイスラーム世界の支配階級もイスラエルの存在を必要とする。この欧米とイスラーム世界の支配階級の間の密やかな共犯関係こそ、中東問題を解決の見えない難問たらしめている真の原因なのである。
続いて「テロ」と国家について。
近代国家は、対外的には軍隊、対内的には警察という形で国家が暴力を独占することによって成立する。したがって国家をテロ組織と呼ぶことはむしろ同義反復でしかない。
国家が暴力装置であることは自明の前提であり、暴力装置であることをもって特定の国家を「テロ国家」と呼ぶことはまったくのナンセンスである。
「アメリカこそが『テロ国家』である」という結語だけ取れば、多くのムスリムや反米勢力が声高に叫ぶスローガンと変わりありませんが、そこに至るロジックは精緻かつストイックなもので、よくある「喚くイマーム」のただ感情を剥き出すだけの議論とは種を異にします。
このエントリも、最後に預言者ムハンマドの言葉を孫引きしておきます。
預言者ムハンマドは言われた。「食事客たちが大盆に互いに呼ばわり群がるように、諸民族が互いに呼ばわり汝らに群がるようになるだろう。」
ある者が尋ねた。「それはその時(ムスリムの)数が少ないせいでしょうか。」預言者は答えた。「その時、汝らは多数である。しかし汝らは流れに浮かぶ塵芥のようなものなのだ。そしてアッラーフは汝らの敵の心から汝らへの恐怖を取り除かれる。そしてまたアッラーフは汝らの心に弱さを投げ入れられる。」
そこである者が尋ねた。「アッラーフの使徒よ、その弱さとは何でしょうか。」
彼は答えた。「現世への愛と死への嫌悪である。」(アフマド・ブン・ハンバルの伝える預言者ムハンマドの言葉)
イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで (講談社選書メチエ) 講談社 2001-12 |