ベンジャミン・バトン 数奇な人生

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 ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット主演、デビッド・フィンチャー監督による『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』。
 少なくとも今後数年間は、これを超える映画には出会えないだろう。それくらい、凄い作品だった。

 正直、最初は乗り気でなかった。特撮で作ったらしいブラッド・ピットの「老人のような子供」の顔が気持ち悪くて怖かったし、次第に若返っていく男と年老いていく女がすれ違い愛し合う、という荒唐無稽な恋物語だと思っていた。
 そういう側面がないわけでもないのだけれど、恋愛映画などという狭い枠に収まる作品では、まったくない。逆向きに流れる奇妙な一生を描いたようでありながら、この物語にあるのは終始「死」だ。
 老人ホームで育つ老人のような少年。間近で見るのは、やって来ては「去って」いく老人たち。何度も繰り返される葬儀の風景。戦争、母の死、父の死。そもそもこの物語自体が、忌の際の老女が語る昔話だ。
 そして、常に死と接し続けるからこそ、生が狂おしく輝いている。死から隔離されていないからこそ、キチンと「存在」できる。「存在できる」ということの意味は、自らの存在について、先験的な許可を感じられる、ということだ。大抵の人間は、一度は「なぜ生きているのだろう」と考えたり、存在に対する赦しが必要な気がする(「生きる目的が欲しい」)時期というのを経験するものだが、それが過剰になると、生きるのはとても辛くなる。その時知るべきなのは、わたしたちは予め圧倒的に(まったく不愉快なまでに!)許可されてしまっている、という悟りだ。
 「若返っていく男」というと、不思議な運命に翻弄され悩む青年像を想像しそうだが、ここにあるのはそうした苦悩ではない。そのような場面もあるにはあるが、青年は恐ろしく自らの運命に従順で、皆が疑問を持たない。それは彼が、どうしようもなく死に囲まれて「存在」させられているからだ。
 この物語に登場する人々の「悩みの無さ」には、注目しなければならない。能天気という意味ではない。彼らなりの苦悩が色々と描かれてはいるのだが、近代私小説的な卑小な自我に振り回されている要素が、状況設定から想像されるに比して、非常に少ない。この映画が描いているのは、「運命に翻弄される人間たちの心」ではなく、「運命に翻弄される人間の圧倒的存在」そのものだ。ただ何かが在り、在りと在るものが神を証明している。そんな印象を受ける。

 個別的な場面として美しい箇所は沢山あるが、一つは戦争。
 まったく想定していなかったし、注目する人もあまりいないかもしれないが、実はこの映画には「戦闘シーン」がある。詳細を語るのは控えておくが、この戦闘が非常に怖い。戦争映画やアクション映画であれば、この一万倍も派手な戦闘シーンが沢山あるわけだけれど、そんな「戦い」より、この映画に登場する本当にささやかで一瞬の戦闘の方が、遥かに怖い。
 それはきっと、戦争以外の様々な文脈と切り離されることのない「戦争」が登場しているからだろう。
 幸いなことに、わたしは戦争を経験していないが、実際の戦争は決して映画に登場したりCNNで覗き見するようなものではないだろう。ものすごい生活感があり、日常の延長の場所で、突然殺戮が行われるのだろう。この作品も、もちろんあくまで映画なわけだが、そうした「連続感」が比較的損なわれていない。だから格別に怖く、そこで目撃する死にも重みがあるのだろう。

 ティルダ・スウィントン演じる人妻も、非常に魅力的なキャラクターだ。あと3キロのところで英仏海峡水泳横断を諦め、そこで時間が止まってしまっている、という女。個人的に、とてもとても心の中に入ってくる女性だった。
 その彼女が、ベンジャミンの後の人生の一場面で、テレビに映る瞬間がある。まるで神の介入のように、美しい瞬間だ。

 「雷に七度打たれた老人」も素晴らしい。彼の昔語りに、コミカルな「再現映像」が被さる。普通のハリウッド映画であれば、こういう演出はしない。安っぽくなるからだ。しかしデビッド・フィンチャーは敢えて滑稽な演出をとり、それが畳み重ねられることで、次第にコミカルな映像の方が外部にあり、その中に物語があるような、リアルと空想の入れ子構造が裏返るような、不思議な気持ちにさせられる。
 痴呆の老人は同じ言葉を繰り返す。それを外から見るわたしたちは、脳の機能が侵食されて、本当の時間を感じられなくなっているのだ、と考える。しかし本当にそうだろうか。
 わたしたちが「本当の時間」を生きていることを証明するには、外部からの証言がなければならない。しかし外部は普通、介入しない。神様は何も言わない。むしろわたしたちの方が、同じ場所をグルグル回っているだけではないのか。

 「タトゥー・アーティスト」になった船長とその反復される言葉も魅力的だ。「運命の女神を呪いたくなるが、お迎えが来たら仕方がない」。そしてハチドリと永遠のイメージ。
 ここにも永遠と反復が再現する。一つの場所をグルグル回っている。
 そう、だからこの表象が、この映画で繰り返されるのだ。つまり、「流れる」のではなく「存在」だ。
 こういう表現を見ると、ついセム的時間1とギリシャ的時間を思い出してしまう。ギリシャ的時間、ヘレニズムの時間は、人間の外を絶対的に流れる。過去・現在・未来というフレームがあり、その中で出来事が生起する、という構造だ。英語の時制にもこれがよく表れている。
 対して、セム的な時間感覚の基本は、「完了と未完了」だ。一般に完了は過去、未完了は現在に対応するように思われているが、何かが完了したり完了していなかったりするのは、出来事に対する相対的な位置づけであり、絶対時間ではない。
 この構造は「開示されたもの」と「開示されていないもの」とも言い換えられる。一つの超時間・無時間的な世界があり、そのうち一部は既に開示されているが、一部は見えない。見えないものも、未確定なのではなく、最初から最後まで一つの中に確定している。ただ知らないだけだ。
 この世界観の中では、時間が流れることより、超時間的に存在することが重んじられる。わたしたちは誰でも、生まれてきていつかは死ぬが、その全体が世界に「在る」という意味では、永遠だ。

 永遠とは、ただ世界の一部として、神の元に存在することだ。
 この映画の二人は、逆向きの時間を生き、すれ違っていく。しかし、本当にそうだろうか。
 世界の一部として在る、存在の次元においては、二人へ永遠に共にあり、そこに時間はない。ハチドリの翼の動きのように、無限だ。
 わたしたちの誰もが、ただすれ違うだけだが、時の向こうにあるものを感じられた時、時間は消滅し、ただ存在だけが永遠となる。
 ただ跪き、地に接吻を。

  1. 普通この対比は「ヘブライズムとヘレニズム」と表現されるが、アラブ思想にも流れるものをヘブライと一括したくないため、敢えて「セム的」と記述する []