『デジャヴ』トニー・スコット監督

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 『アンストッパブル』が面白かったので、トニー・スコット監督作品『デジャヴ』見てみました。

B000PTYQZ6 デジャヴ [DVD]
ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント 2007-08-03

 トニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演。
 最近DVDで見たのですが、どこかで見た記憶があり、多分飛行機の中か何かで見たのだと思います。この辺、個人的にも「デジャヴ」でした。
 この作品、娯楽としてそれなりに面白いだけでなく、「数日間過去の映像をリアルタイムで見る」「タイム・ウィンドウ」という構想が非常に面白いです。この道具立てで、別の面白い作品も作れるのではないかと思います。
 映画の中に「われわれは常に過去を見ている、光が到達するには常に時間がかかる」という内容の台詞がありますが、これを巡っては若かりし頃に中心主題のように考え続けていたことでした。同様の表現のできる道具立てとして、サイコメトリー(ものに触れることでそのものの過去を知ることができる超能力)という仕掛けがあり、これを使って過去の過去性について非常にスリリングかつ面白く描いた作品にコリン・ウィルソンの『賢者の石』があります。
 もっと卑近なところでは、わたしはいつも「匂い」のことを考えます。というより、タイム・ウィンドウやサイコメトリーといったギミック(あるいは神話)が到達しようとしてるのは、実のところ「匂い」の過去性なのではないかと考えられます。
 犬は人間よりずっと優れた臭覚を持っていますが、他の犬や人間に会えばとりあえず匂いを嗅ぎ、電柱やら色々なものの匂いを嗅ぎます。電柱を嗅ぐと「三丁目のジョンが通った」とか、そういうことが分かるのでしょう。
 この時、ジョンは既にその場にはいません。ジョンは過去です。しかし、電柱に残った匂いは現在のものです。つまり匂いとは痕跡であり、過去の現在への流入です。犬は時間的な深みをもった地図を持っているとも言えるでしょう。
 人間は犬に比べるとずっと臭覚が弱いですが、哺乳類は基本的に「鼻で考える」生き物であり、人間もまた、識閾下で認識している臭覚の領域が非常に広いと言われます。つまり「匂いがする」と意識はしていないけれど、匂い自体を認識している、というレンジが広いようなのです。
 この辺は、第六感やら何やらといった話にもつながっていきそうで、それはそれで面白そうなのですが、ここでの関心事としては、過去の過去性、現在への流入です。正確に言えば、過去・現在・未来という、流れる時間軸の仮構性です。
 この時間軸モデルというものに、わたしたちはすっかり慣らされてしまっていて、かつ非常に有用な考え方ではあるのですが、一方でこの時間観というのは非常にギリシャ的で、特殊西欧的なものでもあります。これに対し、ギリシャと共にヘレニズムを形成したヘブライ的な時間というのは(アラブ的時間でもある)、完了/未完了というものが軸となり、これは必ずしも「物理的」時間の展開とは一致しません。ネイティヴ・アメリカンの部族の中には、「開示されたもの」と「開示されていないもの」の二つの時制を持つものがいる、と聞いたことがありますが(真偽不詳)、完了/未完了も似たところがあります。
 「物理的」時間がどうであるかはさておいて、わたしたちの考える時間というのは、単純に心なく一方向に流れて終わり、というものではありません。「わたしたちは常に過去を見ている」かのように、わたしたちの現在の布置、空間的世界の中には、常に過去が流入しており、まるでわたしたちは重層化した過去の中を歩いているかのようです。
 これには上記の通り言語が大きな役割を果たしている、というより、ここで言うところの過去とは、言語の内部に存在するものです。確か入不二基義氏が『時間は実在するか』の中で、過去はいつから過去になるのか、という問いに対し、「それは過去形で語られた時からだ」という答えを出していますが(違ったらごめんなさい)、過去というのは時間軸の後ろの方にあるものではなく、それが過去として認識されたもののことです。というより、そういう意味での過去が、ここで問題にしている過去です。
 映画『デジャヴ』の中でも、流れる過去の映像を見ながら、主人公はむしろそちら側に「リアルタイム」を奪われていきます。この映画では、「過去そのもの」が直接に見られており、その生々しさが際立っているため、この心理も説得力を持つわけですが、実は、過去の映像を見る、という経験自体は、わたしたちが日常的に行なっていることです。ただそれは「記録された過去」であり、「これは過去である」というスタンプの押された過去です。そのために、通常、わたしたちはそれに「リアルタイム」を奪われはしません(非常に没入したケースではあり得るし、物語の力というのはそういうものだ。というより、まさにこの「時を奪う」機能こそが物語だ)。映画の中で描かれるのは、「記録ではない過去」という、ある種の逆説で、ここにより明らかにされていることは、「記録である」というスタンプが外されてしまえば、過去は過去性を失い、人の現在に流入し、現在を奪う、ということです。実際、彼は「過去」へと入っていき、帰らぬ人となります。
 この過去の流入と物語という要素は、「現実と虚構の区別は出来きすぎてはいけない」でも触れた、わたしたちのイマジネールな「現実」のフィクション性と、そのままシンクロしてきます。つまり、通常わたしたちは、時間軸の最先端を「未だ見ぬ未来」に向かって、闇の中を突き進んでいるようにイメージしていますが、実際のところ、わたしたちの現在は過去に汚染されまくっており、ほとんどの場合、過去と連続したフィクションの中を生きています。ホメオスタシスにしがみつく防衛機構のようなものが、このフィクションであり、物質的連続、統合された延長体としての世界そのものです。
 ですから、時にその統合が(統合失調症的契機などにより)瓦解することもあり、また一方で、別のフィクション、過去からやって来た呪いのような物語が、現在を掠めとって人を奪っていくことがあります。わたしたちが物語に飲み込まれる時に起きていることは、過去からの怪物に飲み込まれることです。

 例によって映画と全然関係ないことを書いていますが、こう考えると、『デジャヴ』という映画のタイトルはあまり適切ではないように思われます。既に見たものをまた見るというより、見るということを既に見たという経験が奪い取っていくのですから。

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