現実と虚構の区別は出来きすぎてはいけない

「阪神x巨人戦」が中止になったようで、代わりに血液型による行動の違いなどを紹介した「血液型ランキング」が放送されていた。離婚しやすい血液型、太りやすい血液型などが紹介されていた。
その真偽はともかく、あくまでこれは個人的な観察だが、血液型性格判断を信じている人ほど、社交性があるように思える。反対に、血液型性格判断を信じていない、正しい判断力を持った人の方が、社交性が低いような気がする。
正しい判断力のある人間よりも、判断力のない人間の方が社交性が高い――。これは、メディアによる人間への影響を調査した結果と一致する。坂元章らによる「青少年と放送に関する調査研究報告書」(2002)によると、現実と虚構の区別がつかない人ほど社交性が高いという分析結果が出ている。ただしここでいう虚構とはテレビのことを指し、テレビゲームは含まない。テレビの影響を調べた結果、現実と区別のついていないほど社交性が高いことがわかった。テレビゲームの場合、現実と虚構の区別が出来るかどうかと社交性との間に関係はなかった。
また、NHKの調査(『NHK日本人の性行動・性意識』)でも、似たような調査結果が出ている。メディアから影響を受けた人たちと、そうでない人たちを比較したところ、メディアから影響を受けた人の方が、恋人にも恵まれ、初体験の年齢も早かった。「メディアの影響」と聞くと負のイメージを抱きやすいが、実はメディアから影響を受けている人の方がコミュニケーション能力に長け、性的な領域では活発な様相を見せているのだ。
-憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記 過去ログ-

 これは面白いです。最近触れているプロレス的なるものともつながります1
 ただ、この後で続けている「フィクショナルなものから人間関係を学習するのでは」というのは順序が逆で、そもそもわたしたちの生活世界を支えている多くの構造物がフィクショナルなものです。真の人間関係と嘘の人間関係があるのではなく、人間関係はフィクショナルなもので、またその関係性において機能する様々な社会的構造物も(学歴とか結婚とか)、フィクショナルです。といってももちろん、テレビドラマのような意味で「フィクション」な訳ではありません。重要なのは、いわゆる意味での狭義のフィクションと、「真剣なフィクション」を分かつ分かりやすい目印のようなものはない、ということです。こんなことは手垢にまみれまくった議論で、ここが一筋縄にいかないから言語行為論の人とかが百年くらい喧々諤々やっているのです(笑)。
 これはフィクションの「向こう側」がないと言っているのではなく、向こう側はあるのですが、それは直接に識られるものではなく、かつわたしたちを包囲する「ある特定の」フィクションと「いかに」結びついているのか、その結びつきについてフィクション複合体の内部からは説明できない、ということです。
 まぁそう言うわたし自身は、社交性のまったくない「原理主義的」人間なのですが。

  1. それはバッタである、アッラーではないも関連 []
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