原発を巡る動きを色々眺めていると、電力会社や経産省およびその周辺が、「原発がなくても夏が乗りきれちゃったら困る」と焦っている様子が伺えます。
ここでは原発プロパーのことが言いたいわけではないのに、本当に原発なしで何とかなるのか、その辺のところは議論しません。とにかく、「なくてもいけるのか、ないと困るのか」が焦点になっている、ということです。
原発を維持したい人々は、「ないと困る」と何とか演出しようとするし、原発をなくしたい人々は「なくてもいける」と言おうとします。
原発プロパーについて言えば、個人的には是非なくす方向でやって頂きたいので、「なくてもいける、だからなくせ」で通してもらっても構わないのですが、このロジックの背後には、「なくてもいける」が殺し文句になる、という前提があります。
これは冷静に考えると、結構恐ろしいことです。経産省が恐れるのも分かります。
「なくてもいける」なんて言い出したら、なしで何となるものなんていくらでもあるからです。
そういう「なくてもいける」ものを大量に生み出し、さも「ないと困る」かのように演出することで、わたしたちの経済活動は成り立っているのです。「ないと困る」はわたしたちの暮らしを支える重要なファンタジーで、何としてもこれを維持しなければいけません。このファンタジーは、原発そのものよりずっと大切でクリティカルです。どう見ても「なくていける」ものでも、無理やり拉致監禁してシャブ中にしてから「ほらシャブないと困るやろ~」と、安っぽい映画みたいな真似をして押し通します。
ここで重要なのは、「なくてもいける」なら、即「じゃあなくしましょう」につながってしまう、ということです。「ないと困る」という唯一の言い訳が外されてしまうと、死刑執行までまっしぐらなのです。だから「ないと困る」ファンタジーにしがみつくのです。
原発の問題も深刻ですが、同時に考えることは、そもそも「なくてもいける」が「ない方がいい」に直結して良いのか、ということです。別の言い方をすれば、その存在に対する合理的な理由が見つからなければ、大抵のものはない方がマシ、という発想が、多くの人々(少なくとも、多くの日本人)の心に染み付いてしまっていることの不気味さです。
「なくてもいける」なんて言ったら、わたしが一番最初に要りません。あなたも多分、要らないでしょう。「いや、俺がいないと仕事が回らない」という人は、社畜乙というか、まぁそう信じてられるなら特にそれ以上追撃しようとは思いません。
企業云々で言うなら、そもそも「属人的組織ではあかん」という理念があるわけで、元より「ないと困る」があっては困る前提、少なくとも理想型として人については「なくてもいける」を通すべき、という像があります。そして世の中全体がそうした理想型に汚染されていっている以上、本当のところ「ないと困る」ものなんてほとんどなくて、むしろない方が良い、という、死刑執行と紙一重、ちょっとでも視線を正面から外したら奈落の底に真っ逆さま、という社会をわたしたちは作ってきたのです。
だから、オープンな空間については徹底的に「ないと困る」ファンタジーを醸成し、一方で「なくてもいける≠ない方が良い」という世界は、例えば家族や恋愛といった、プライベートな閉鎖空間に押し込めてきたのです。この社会は、「なくてもいける=ない方が良い」なクールで非常なファンタジーと、「人間は合理性だけじゃないんだ!」と叫ぶ閉鎖的で分断された小物語群に整理されてしまいました。
何が問題なのでしょうか。
「なくてもいける=ない方が良い」が公式ロジックになっていることです。これはつまり、世の中は合理性を旨として成り立つべきで、なおかつわたしたちには合理的に物事を成し遂げられる能力がある、少なくとも可能性がある、だからその方向で頑張るべき、という前提です。
そもそもの始まりから、世の中というのは、別に「ないと困る」から何かがあったりするものではありません。裏返すと、すべてのものは「ないと困る」のですが、その理由をわたしたちは知りません。「ないと困る」人は、「わたしたち」ではないからです。
わたしは神様を信じている人なので、「ないと困る」のは神様で、かつ神様がなんで「ないと困る」のかは分からない、つまり世の中には合理が存在するが、その合理はわたしたちには到達不可能なものである、と考えるのがスッキリするのですが、神様がどうしても信じられない、と言うなら、ここのところは括弧に入れて頂いても結構です。その場合、合理あるいは人知というものに限界があるという諦念、と考えて頂いても大差ありません1。あるいは、合理なんてそもそもない、というのでも、大勉強して近いです。
世界に理があるか否かは別として、わたしたちはそこには到達できない。せいぜい部分的にしか分からない。
そういう諦念を、少なからぬ人々が忘れてしまっていることが、原発以上の脅威です。
ちょっとむちゃくちゃなことを言えば、原発推進派が、「原発はなくてもいける。しかし原発を作ることは神の意志である」くらい暴論を吐けないことが、むしろ恐ろしい、ということです。これは本当に暴論ですが、世の中の非常に多くのもの、加えてわたしたちの存在そのものは、これと似たり寄ったりの暴論で無理やり存在しているのです。あるいは、本当は暴論ではない理屈があるのだけれど、その理屈をわたしたちは知らないので、頑張って説明するとどうしてもむちゃくちゃな理屈になってしまう、そういうカラクリで動いているのです。
本当は、原発推進派はむしろ上のような暴論を吐いた上で原発をブチ建てるべきです。
そして反対派は、「原発はないと困るかもしれない。多くのものを失うかもしれない。しかし悪だ。だから殺す!」と叫んで良いのです。むしろ叫ばないといけない。それが「わたしたち」を本当に守る唯一の道だからです。
わたしたちも原発も、合理によりこの世に呼び出された訳ではありません。そしてまた、合理により滅ぼされる訳でもありません。
正確に言えば、滅びに常に理はあるのですが、その理をわたしたちは知りません。知っている、あるいは知りうるなどというのは、奢り高ぶった迷妄にすぎません。
以前に「サヨクはイスラームの味方なのか」というエントリで、主知主義と主意主義のことに触れました。
最近、原発について、麻布論壇さんの「保守主義者が反原発で何が悪い!」というエントリを読み、根底のところで共感できる考えだと感じました。「保守主義者は、「理性の盲信」を忌み嫌う」「保守主義者は、諦観とともに生きる」というのは、わたしが自身を「右翼」と自称することと、本質的な部分で通底しています2。特に原発問題単独で言うなら、このエントリで書かれていることの九割くらいは、そのまま支持できます。
もちろん、重要なのは、その背後にある大前提です。
「原発はなくてもいける、だから潰せ」というサヨクについては、渡世の行きがかり上、耐え忍んで黙認します。イスラエルを叩くサヨクと、丁度同じくらいの扱いで。
しかし本当のことを言えば、「なくてもいける、だから潰せ」などでは全くない。そんなロジックで動く迷妄の輩を、絶対に信じることはできない。
右翼は「原発はないと困るかもしれない、だが潰せ」と立ち上がらないといけません。そういう人々は「イスラームは皇国の思想に反する、だから潰せ」という右翼と同じくらい、あっぱれと支持したいです。あなたと戦って死ねるなら、一ムスリマとして本望です。