間があるから、行いは必ず報いられる

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 「間が抜けてるよ」と思うことが多いです。
 脳ブームなるものが今もまだ続いているのかよく知りませんが、心的事象を物質的に還元しようという流れがあります。一方で、「スピリチュアル」に踊らされる人々がいる。この両者は一見相反するようで、実は同じことをやっています。
 どういうことかと言えば、よく言われるベタなお話として、「大きな物語」に希望が抱けなくなって以降、それこそ動物的ポストモダンというか、高度な(暴走する)機械として人間および人間的事象を理解しよう、という動きがまずある。精神医療の領域で、薬物治療の比重が大きくなり、精神療法が時代錯誤なものだと思われるように、かつては心的領域として特権化されていた部分が、少なくとも将来的には物質的な還元が可能であると期待されるものとして、取り扱われる。これはモダンというよりポストモダンであって、単なる唯物論ではありません。
 これは必ずしも「非人間的」なお話ではなくて、例えばある種の精神疾患が、かつては母親の責任であるかのように語られていたのが、わたしたちには選びようもない物質的領域に帰せられるものとして、過剰な訴追を解除する働きもあるわけです。物質のせいであれば、「わたし」の出る幕はなくなるし、不条理な責任を負わされることもなくなる。
 一方で、人間の性質がすべて遺伝に帰せられるような言説は露骨に優生学的であって、近代的な人間観を根底から覆してしまうものですから、依然として強力なタブーが働いている。こうした方向の果てには、教育というものへの過剰な期待や、人間が生まれた時点で真っ白であり、あらゆる可能性を秘めているかのようなファンタジーがあります。相続税を100%にして、生まれのアドバンテージを極力無化しよう、というような発想がありますが、これは裏をかえせば、社会的な不条理な枠を外してやれば、わたしたちは自由に競争できる、ということです。
 おそらくはこれと連なるものとして、母親たちが過剰に養育過程における役割を評価する。ちょっと育て方を間違えればすべて自分の責任なのではないか、というのは、翻せば自分にそれだけの介入余地があると思い上がることであって、教育さえしっかりしてやれば、子供は白紙の状態からスタートできる、人生リセットして再スタートするように、自分にはできなかったことでもやらせられる、という期待があるはずです。
 しかし実際のところは、子供は親の言うことではなくやることを真似る、等と言われるように、子供は思ったように育つものではないです。では親の役割が全然ないかといったら、そういうことではなく、自分ではいかんともしがたい、自分の背中のような部分で、決定的に機能している。
 これは遺伝的還元ということではなく、意志やら教育やらによってはどうしようもないけれど、知らずにやっている癖や習慣が伝播していくような、所謂ミーム的領域によって、親のものは一定の範囲で確実に子に伝わる。ですから、遺伝的に還元できない領域でも、ある程度「家系」というものはある筈です。「家系」などというと、上のタブーに思い切り抵触するので叩かれるわけですが、伝えたくなくても伝えてしまう薫陶のようなものがある。間の領域です。これは未来永劫不変のものではないですが、二世代や三世代では変わらない、それくらいの程度に安定して伝わっていくものです。
 スピリチュアルとか言われているものも、物質的還元のできない領域が、いきなり霊だかエネルギーだかそんな領域にジャンプしてしまっていて、間がスッポリ抜けている。物質と個人の意志の二つがあって、その間が恐ろしく空虚になっている。物質的一元主義に凌駕されそうになって、ヒステリックに矮小な自我の部分がわめいている、それがスピリチュアルであって、結局のところ両者は同じ穴の狢です。
 では間の抜けてしまったものが何かというと、これを間主観性とか社会とか言ってしまうと、もうそれだけで指の間をすり抜けていくような喪失感があります。こうした見方は全然間違っているというわけではないのですが、まず個人とか個体とか、アトムの部分があって、それが沢山集まった時に生じる副次的機能、のようなイメージが拭いきれない。つまるところ、物質的に還元できるか、さもなければ意志のレベルに回収できるか、その二つしか考えられていない、ということです。
 間の部分というのは、物質的還元もできなければ、意志の力によってもどうしようもないものです。遺伝だの脳だのではどうにもならないけれど、かといって人間の力で何とかできるものでもない。あるいはまた、ミーム的に否応もなく伝播されてしまうもの。その水準にあるものの、独立した圧倒的パワーというものが、著しく軽んじられているのです。
 比較的分かりやすい表象としては、経済現象のようなものがあります。経済活動は、あくまで人間的な営為です。人間の作り出したルールで動いているに過ぎない。では政府が頑張って索を弄したら好きなようにコントロールできるかというと、そうもいかない。それができるなら世界恐慌も戦争もなかったでしょう。まるで手が出ないというわけではないし、できることがないわけではないけれど、統御できるかというとそんなことはない。重要なのは「できません」と言ってしまうと、これはとんでもなく恐ろしいことで、おいそれと偉い人も「無理です」とは言えないのです。偉い人が「無理です」と言ってしまったら、どう考えても人間的事象でもあるにも関わらず、人間にはどうしようもないことがある、と言ってることになってしまい、シモジモはパニックを起こしてしまいます。ですから、偉い人は無理して偶像をやるしかないのです。ハリボテの神様でもないよりマシ、ということでしょう。
 本当はこの領域には独立した物凄いパワーがあるのです。それなのに、この領域をスルーして、脳とスピリチュアルで何とかしようとするから、ハリボテが頑張らなければならなくなる。もしかすると順序は逆で、ハリボテが偉そうな顔をするために、間には何もない演出をしているのかもしれません。どちらが卵かというのは、ちょっと簡単には言えない。ただ、清く正しく生き物の一部なのに生き物にはいかんともしがたい癌のようなものが、膨らんでいく。
 ですから、今度はシューキョーの側を向いて言いますが、唯物的なものに対抗するからといって、霊だのパワーだの言っては全然ダメだということです。そんなものは、かえって唯物的還元を助けるだけのヒステリックな反応に過ぎません。項目は三つあって、抜けているのは間の一番つかみ所のない部分です。
 
 話が飛ぶようですが、エジプトの諺で「善行を為すなら海に投げろ」といった内容のものがあります。これは「お金を貸すならあげるつもりで渡せ」と言っているようで、実は違います。海に投げたら、ちゃんと返ってくる、という含意があるのです。
 これはかなり無茶苦茶な話です。普通に考えて、海に投げたらそれっきりです。奇跡的に返ってくることもあるかもしれませんが、基本的にはないでしょう。
 でもそうではない。善行は必ず報いられる。100%報いられるのです。
 「そんなアホなことがあるか」というのが普通の発想でしょう。わたしもそう思います。誰かに善行を為して、それを彼または彼女がしっかり覚えていてくれて、十年後に大金持ちになったあの時の可哀想な子が「お世話になりました」とか言って別荘か何かプレゼントしてくれる、という状況は、まぁちょっと普通に有り得ないでしょう。善行というのは、そうやって返ってくるものではありません。少なくとも、滅多に返ってこないです。
 善行が返ってくるというのは、施したのとは全然違う見当違いな場所から返ってくる、ということです。困っているAさんにお金をあげたら、三年後に本当にピンチになった時、Bさんが助けてくれる、みたいなお話です。AさんとBさんには何の関係もない。だから、個人の集まりとして世の中を眺めるなら、別段「返って」はいません。でも善行が返ってくる、と言うのは、助けてくれるBさんはアッラーの遣わされたものだからです。
 こう書くと「またアッラーかよ」とウザがられるかと思うのですが、要するにそういう絶対的な媒介項というものが、個人より先に来る、というのが大事です。個人の単位で考えていたら、善行もヘッタクレもありません。ですが、そこで善行を手放してしまうと、人は物質とスピリチュアルの間にまっさかさまに落ちていって、どちらに走っても一番大事なものが取り戻せなくなってしまうのです。だから、介在項を信じなければならない。信じてなくても、機能しているのです。
 時々勘違いしている人がいますが、アッラーは自足される御方であって、あなたが信じようが信じまいが、そんなことは屁でもありません。損するのはあなただけです。信じていなくても勝手に機能しています。ただ信じていないと、せっかく目の前に用意されている恵みをゲットできなくて、自分が損だというだけです。
 容易には信じがたいと思いますが、善行は本当に返ってくるのです。なぜなら、あなたは個人というバラバラの虫みたいなものに貸し付けているのではなく、アッラーという巨大な一つの力に貸し付けているからです。アッラーは借りたものは必ず色をつけて返して下さいます。そして実際、日々返ってきている。それに気付くか気付かないか、受け取るか受け取らないかはあなた次第ですが、本当に機能しているのです。
 だから、貧者に施すにしても、その貧者から何かが返ってくるなどと期待してはならないし、実際大抵は返ってきませんから、そんなことを考えてもしんどくなるだけです。返ってこないと思って守銭奴になっていても、最後には誰も助けてくれません。ただひたすら孤独になっていくだけです。損です。だからもっと単純に、アッラーのものをアッラーに返せば良い。乞食も卑屈にならずに堂々と貰えばよい。実際、ムスリムが多数派の地域の乞食は、びっくりするくらいあつかましいです。当然の権利を行使しているだけだからです。そしてアッラーは、必要なときに必ず助けを送って下さる。それが具体的にどういうBさんになるかは、アッラーのみぞ知るところですが、とにかく物凄い勢いでそう信じなければならない。物凄い勢いですが、その気になれば全然無理というほど大変なことでもありません。人間、どのみち何かを信じて生きているのです。今だって多くの人たちがハリボテを信じているのですから、ハリボテをやめてアッラーにするくらい大したことではありません。
 
 あんまりアッラーアッラー言うと、宗教慣れしていない人には頭がおかしいと思われるし、ムスリムからは涜神的だと思われるし、踏んだり蹴ったりで乗る気がしないのですが、こういう汚い仕事もやっておけばいずれアッラーが返して下さると思ってメモしておきます。これが善行ではなく悪行なのなら、懲罰で報いられることでしょうが、それはアッラーのお決めになることなのでわたしは知りません。



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