イスラームというと、「細かい戒律」が話題にされることが多いです。
非ムスリムなのに、エライ細かいことを知っている人もいます。
しかし、戒律というのは、組み合わせて演繹していけば唯一の回答が得られる、という種類のものではないはずです。倫理的問題を二者択一的に考えてしまうのは、しばしば非常に危険です。
日本人には特に、「細かさ」への強迫的なこだわりや、それを混ぜっ返す傾向が見られる気がします。これは「工学的」思考方法を倫理問題に適用しているせいではないか、と推測されます。
「工学的」という言い方が妥当かどうかはわかりませんが、要は「正しく手順を踏んで行けば、一つの結果や答えにたどり着くはず」という信念のことです。
こうした思考様式が現代日本で支配的であるのは、明治期および戦後の二つの段階で欧米思想の功利主義的側面(のみ)を輸入しようとしたこと、日本人の教育水準が全般に高いこと、さらに現代日本においてインフラが極めて高い水準で成り立ちかつサービス品質がおしなべて大変高いため、「人間的秩序」を信じ行動することが理にかなう状況となっているから、といった理由を思いつきます1。
この信念はとても役に立つし、否定する気は毛頭ありません。しかし、これが通用しない領域もあるし、通用しない世界の方が本当はずっと広いのです。
「工学的」方法が強力なのは、その方法が適用不可能な領域をバッサリ切り捨てるからでしょう。「検証可能性を明示できない言明は無意味である」と宣言する論理実証主義者のように2。
しかし、わたしたちは「無意味」なことをやるものだし、やっていることのほとんどは「無意味」なのが人間です。
そういう混沌とした領域をカバーしようとするのが倫理的思考であって、ここで「工学的」に振舞おうとすると、強迫的迷宮にはまり込むことになります。
非常に難しいのは、戒律の細かさにばかり着眼する人(強迫神経症のような信徒にしても、反イスラームの論拠としてこれを用いる者らにしても)に対し、「いやいや、戒律は戒律ですから」と有名無実的なことを言うわけにもいかない、ということです。
ある行為が義務なのだとしたら、やはりそれは義務なのであって、「形だけですから」というわけにはいきません。
一方で、演繹的にある行為が義務と認められたからといって、その義務が機械的に現実的状況に適用されるかというと、そう簡単ではない、というのが倫理的問題の難しくかつ面白いところなのではないでしょうか。
つまり、ある倫理的要請があり3、かつ現実が必ずしもこれにそぐわないことは、倫理的要請の価値の無さに由来するのではなく(現実が倫理的要請に勝るのではなく)、倫理的思考様式の内部に、その適用の多様性と複雑性が織り込まれているはずだ、ということです。
ここで連想するのは、ハサン中田考先生の『イスラーム法の存立構造』にあった次の下りです。
イブン・アル=カイイムが彼の師イブン・タイミーヤから伝える以下の逸話は、フィクフの細則のみに囚われた視野の狭い者には正しいファトワーを発することができず、イスラーム法の原則を踏まえた上で大所高所から問題の背景を見通し総合的に最善の判断を下す必要があることの好例と言えよう。
私は「イスラームの師表」イブン・タイミーヤが、以下の話を度々語るのを聞いたものである。
「タタール人による占領時代、私(イブン・タイミーヤ)がハンバリー派の同学と共に、タタール人の一団が酒を飲んでいるところに通りかかったところ、私の同行者が彼らを咎めようとした。そこで私はこう言って彼を阻止した。
『アッラーフが酒を禁じ給うたのは、酒がアッラーフを念じること、礼拝から遠ざけるからに他ならない。ところが彼らタタール人に関しては、酒は殺人、児童誘拐、金品強奪から彼らを遠ざけているのだ。だから彼らを(殺人、誘拐、強盗より社会にとってより害の少ない酒宴に耽るままに)放っておきなさい』イブン・タイミーヤはその国法学の書において、いかなる種類の酒であれ一滴たりとも飲むことは許されない、と厳しく飲酒を禁じているが、一般的行為範疇に妥当する法的規定を明らかにすることと、それを現実の自体に適用することとは全く別の問題なのである。
ある行為が義務であるとか、あるいは禁止行為であるということを演繹的に導けたとしても(この段階でも既に一定の揺らぎがあることが明白ですが)、このこととその現実への適用の間には、まだ空隙があるのです。
再度留保すれば、ここに隙間があったからといっても、その前の倫理的要請の価値が損なわれる、ということにはなりません。「適用できないなら意味がないじゃないか」ではないのです。なぜなら、倫理問題に二者択一的解答がないこと、それを織り込んだ上で倫理的要請というものは提示されるものだからです。狭義の「戒律」に含まれない「適用問題」という空隙を含めた全体が、倫理的知性により考察されなければならない対象なのです。
「工学的」知性を高度に訓練された者から見ると、ここで「倫理的知性」と呼んだ種類の思考様式は、単に曖昧で頼りにならず、政治的ノイズに塗れたものに見えるかもしれません。少なくともわたしには、そういう一面が感じられます。
一方で、現実の多くを支配する「政治的状況」に直面し、透明な「工学的」知性の価値や、演繹的な法学的思考を唾棄してしまうのもまた、早計です。
「こんな曖昧なものは信じれない」という方にも行かず、かつ「細かい手続きなんて役に立たない」という方にも転ばない、間の領域に踏みとどまり両方を鑑みる、というのが、本当の倫理的知性のはずです。
もちろん、そこに至る道は険しく、わたしなどには到底及びもつかないものではありますが・・。
一つ、現代日本の中でもとりわけ「箱庭的」環境に育ってしまった役立たずとして、ヒントになるかと思っていることがあります。
普通の日本人がムスリムが多数派の国や地域で出会う、「厳格さといい加減さの奇妙な共存」を体験することです。
イスラームの「細かさ」と、ムスリムが多数派の地域の国々にしばしば見られる「緩さ」、イスラームの平和的側面と荒々しい姿、こうした「矛盾」に見える様相が、矛盾したままどこか府に落ちる地点というのがあります。最初に直面した時には単に「矛盾」に見えるのですが、しばらく付き合っているうちに、「冷静に考えると矛盾しているはずなのだけれど、なぜかそう感じない」と見える心の位置があるのです。
この場所を感じるのは、多くの日本人にとって良い(倫理的)訓練になるのでは、と個人的には考えています。
ことわっておきますが、ボーンムスリムが「倫理的知性」の持ち主だ、と言いたいのでは全然ありません。そういう人も中にはいるでしょうが、大半については、悪いですが全然当てはまりません。
ただ少なくとも彼らは、イスラームというある種の潔癖さと透明さを備えた思想が支配的である社会で生まれ育っていて、どんなにダメなムスリムでも、心の片隅くらいにその欠片が残っています。開き直り切れてはいないのです。どんなワルでもグズでも、必ず自分に対する言い訳を考えています。
加えて、彼らは、個々人において立派なムスリムでなかったとしても、「ムスリムが多数派である」世界で生きています。個々人のレベルにおいては人それぞれだったとしても、最低でも社会の「建前」としての要請については、刷り込みを受けているのです。
この社会が全体として見せる駆け引き、面子の立て方というものが、様相全体として政治-倫理的な示唆に満ちているのでは、と感じられるのです(個人のレベルで参考になるかは全く別問題)。
わたし個人は、こうした感覚を直観的に受け入れられた人間ではなく、むしろ人一倍違和感を抱き、正にその違和感ゆえにこそ関わってきた、という経緯があります。「訓練」として有効だと感じるくらいですから、別に楽しいものではありません。もしかすると、現代日本で生きる前提では、前より「アホ」になる練習かもしれません。
ですが、倫理的問題と一緒に生きていこうとするなら、こうした違和感を求め、旅をしていく義務があるのではないか、と考えています。