不快がないから不快が貨幣になれる

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 内田樹さんの「不快という貨幣」というエントリが非常に面白いです。

(・・・)子どもたちは家庭内で貨幣を使うことを通じて市場経済の原理を学習したわけではない。
貨幣を知るより前に、彼らは家庭内で「労働価値」をはかる貨幣として何が流通しているのかを学んだ。
現代の子どもがその人生の最初に学ぶ「労働価値」とは何か?
それは「他人のもたらす不快に耐えること」である。

現代日本の典型的な核家族では、父親が労働で家計を支えているが、彼が家計の主要な負担者であることは、彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される。

これに対して主婦は何を労働としているのか。
(・・・)
(かつての主婦には肉体労働としての家事労働があったが、それが圧倒的に軽減された結果)育児を除くと、「肉体労働」に類するものは家庭内にはもうほとんど存在しない。
育児から手が離れた主婦が家庭内において記号的に示しうる最大の貢献は「他の家族の存在に耐えている」という事実である。
現代日本の妻たちがが夫に対して示しうる最大のつとめは「夫の存在それ自体に現に耐えている」ことである。

そして、子どもたちは「忍耐」という貨幣単位をすべての価値の基本的な度量衡に採用することになる。
「忍耐」貨幣を蓄財するにはどうすればよいのか。
いちばんオーソドックスなのは「不快なことを進んでやって、それに耐える」ことであるが、もうひとつ捷径がある。
それは「生活の全場面で経験することについて、『私はこれを不快に思う』と自己申告すること」である。

 このエントリは主に「今時の子供」を素材としたものですが、子供に限らず現代日本社会のかなり広い範囲に、「貨幣としての不快」を見出すことができるように見えます。
 多くの人々が、進んで「不快」を表明します。仕事が辛いこと、給料が安いこと、姑がうるさいこと、学校がダルイこと。これらの表明が「自分が背負っている窮状を伝える」ためではないことは自明ですが、「嫉妬を買いたくない」「余裕があると思われて損したくない」という心理的説明、「苦痛を共有していることをアピールする」「とりとめもなく愚痴る」ことによる、「毛づくろい」としての内容なきコミュニケーションとしての見方、それくらいしか考えが及んでいませんでした。
 しかしこれを「貨幣」と捉えるなら、非常にストンと落ちます。
 「愚痴る」ことは別段特殊現代日本的なわけではないですが、ここまで洗練され、貨幣として交換される社会はあまりないように思われます。
 日本のサービス品質の高さは異様で、また顧客の要求度も非常に高いですが、クレーマーというのはむしろ「不快を与えてあげる」ことで蓄財の機会を提供しているようにすら見えます。製品やサービスの提供に見えている経済の多くの局面で、実は不快の流通そのものが目的化している場面を見つけることができるでしょう。
 ではなぜ不快が貨幣となっているかと言えば、逆説的にも、不快があまりないからです。
 「不快がない」と言ってしまえば言い過ぎかもしれません。ないのは「機能的な不快の源泉から来る不快」です。分かりやすいところでは、飢餓や寒暖による苦痛、といった、「そこで不快を感じなければ危険」な源泉から来る種類の不快感が、実はあまりなくなっている、ということです。
 不快が機能主義的な使われ方をしている世界では、貨幣として仕事をする余地がありません。貨幣は、それ自体としては「何でもないもの」でなければならないからです。
 いわゆる途上国の人々が苦境にある割に明るく振舞い、一方遥かに快適なはずの生活環境で暮らす日本人がいかにもつまらなさそう、というのはしばしば指摘されることです。「本当に辛い状況にあって辛そうにしていたら耐えられない」「現代日本には独特の困難があるのだ」というのも当たっているでしょうが、今ひとつに、不快とその表明が貨幣として流通しているから、というのがあるのではないでしょうか。逆に言えば、リアルな不快の源がある世界では、不快を貨幣として回している余裕などないのです。コインを作るための金属は水道管か何かに使われてしまっています。
 不快の表明というのは、表明した結果助けが得られるのでなければ、喚くだけ無駄なものです1。しかしわたしたちを取り巻く(わたしたちが取り巻く)不快表現のほとんどは、不快そのものに対するいかなる救済もコミットメントも期待していないものです。ただただ、不快が表明されています。
 もちろん、個々人はキチンと「不快」だと信じていて、「その不快は単に不快であるための不快だろう」などと指摘すれば、手痛い反論を食らうのは目に見えています。巨大な石を命がけで小舟で隣の島にわたし、数十年して石がまた戻ってくる、というシステムで生きている人々に「その石は回すことに意味があるのですね」と言っても仕方がないのと一緒です。構造的に見えてしまっては貨幣は貨幣として回りません。
 
 エジプトからネット越しに日本を眺めていて、さらに日本に帰ってきて、非常に感じたのは、こんなにも快適な環境で暮らしているのに、みんな本当にしんどそうで、自分も釣られてしんどくなってきて、全然未来を信じられなくなる、ということです。カイロの大気汚染とカオスな交通、息つく暇もないような人間関係と飛び交う罵声、あれに比べたら天国のように静謐な世界なのに、日々憂鬱で仕方がありません。なんのアテもなくポジティヴに語るエジプト人と、こんなに保証された世界で不安に怯える日本人。
 これが気持ち悪くて仕方がなかったのですが、少し見通せる感じがしてきました。
 だからといって、不快が流通する世界が楽しくなるわけもないですが・・。
 
 ちなみに、イスラーム的言語活動におけるアッラーというのは、この「不快」にちょっと似ているのですが、これも話が長くなりすぎるし涜神的なので割愛します。わたしはその交換経済の内側にいますし、「ただの紙じゃないか」と一万円札を破くわけにはいきませんから(笑)。

  1. おそらく無力な赤ん坊の時期が非常に長いという人間の性質に由来し、家畜なども学習するものですが、長くなりすぎるので割愛。これについては『ペット化する現代人―自己家畜化論から』が面白いです []



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