大分以前にはてなで「はてなスター」というサービスが始まり、無料で使える通常のはてなスターの他に、有料で色付きのスターが売り出されました。スターといってもただのマークを付けてあげるサービスですから、単に色が違うだけでお金を取る、というのは奇妙に見え、最初の頃は「ボッタクリや」という声も聞かれました。
その時「お花をあげてお花屋さんが儲かっても文句言う人いないよ」と口をついて出て、書いてから「あぁ本当にそうだ」と自分で勝手に納得してしまいました。
これは、互酬について考える上で、非常に分かりやすい話です。
一昔前に柄谷などにかぶれた人間や小賢しい左翼は、何かと言うと「互酬再分配!」とか叫んでしまうのですが、今これを叫んでも、本当に資本主義に抑圧されている人たちにはちっとも届かないし、言っている本人も青二才の大学生だったりして、これまた説得力がありません。
教科書的に「互酬」という概念に出会うと、大抵の人はこんな感じに理解してしまうのではないでしょうか。
これは、わたしたちが現代社会で一番馴染んでいる、一般的な商品交換の構図にそっくりです
こうとらえてしまうと、互酬というのは単に「お金とモノ・サービス」を交換する代わりに「贈り物と負い目・返礼」を交換しているだけになってしまい、商品交換と何が違うのやらよく分かりません。それどころか、「負い目」とかいう訳の分からないものを背負わされて、返礼も何をしたら良いのやら空気を読まなければならず、香典返しみたいで憂鬱になるばかりです。こんな互酬なら「商品交換の方が分かりやすくで気楽でずっといいやん」と思われて当然です。
互酬というのは、二者関係の中で捉えてしまうと、その特徴が理解できないのです。
本当の互酬というのは、こんな感じです。
贈る人が、お花屋さんでお花を買って、贈られる人に贈ります。はてなユーザーのAさんが、はてなからはてなスターを買って、Bさんにあげます。
お花屋さんと贈り主の関係、あるいはAさんとはてなの関係は、商品交換と一緒です。それとは別に、贈る贈られる関係があり、その全部が互酬です。
ここで重要なポイントが二つあります。
一つは、三者関係のうち、お花屋さんと贈り主の関係は、そんなに重要ではない、ということです。「お花を贈ろう」と思っている人は、何より贈る相手のことを考えているのであって、お花屋さんとかお花そのもののことは、そんなに考えないのが普通です。さらに贈り物をするので気持ちが大きくなっているので、多少ボッタクリな値段でも細かいことに気が回りません。
というか、極端な話、このお花屋さんのポジションは人や商店として存在していなくても良いのです。貧乏だったら野原でお花を摘んでプレゼントしても、立派な贈り物です。
商品交換的関係は互酬と絡み合っているけれど、主人公ではない。大事ではないけれど、絡んでいる。これが大事な点の第一です。
第二の点は、贈られる側は花を選べない、ということです。
何せ贈り物ですから「薔薇もらったけどチューリップの方がよかったなー」というのは、たとえ思っても言ってはいけません。
これが商品交換であれば、百円出してほうれん草を買おうとして、八百屋さんがキャベツを持ってきたら、ゴネて当然です。「勘定合ってるしキャベツでもええやないか。身体にええで」と言われても、そういう問題ではありません。
もちろん、普通は贈る人は贈る人なりに気をきかせて「喜ばれるものを」と考えはしますが、基本的に「贈り手市場」です。贈る人が「手土産なら虎屋の羊羹や!」と決めてしまったら、たとえ糖尿病でも羊羹受け取るしかありません。キャベツはダメ。
この「贈り手本位」な互酬の性質が、次の互酬につながります。
贈られる側は返礼を要求されるのですが、それは単純に負い目を負っているから返さざるを得ない、というのではありません。互酬は借金ではないのです。
負い目もあるのですが、同時に「羊羹なんかよこしやがって、わしを殺す気か」という、よくわからないモヤモヤした情念が、贈られた人を駆動するのです。
花を贈られた人が、今度はカステラを買って返します。
情念のパワーによって、互酬は時間的に展開します。三者関係の互酬は、そこで閉じるのではなく、次につながることで三次元的に積み上がるのです。
更に、ここでは前にお花屋さんだったところを、カステラ屋さんが陣取っています。
お花とカステラの間には何の関係もありません。でも今度はカステラです。
互酬の最初の三角形では、矢印の関係が不均衡でした。贈られる人とお花屋さんには何の関係もないからです。
この関係は、共時的な三者関係の中で完結するのではなく、次の段階へと次々にズレこむことによって、全体として成り立つのです。
厳密に言えば、本当に全体として帳尻が取れているかどうかはわかりません。全然分からないのですが、何となく成り立っている気持ちで、時間的にドライブされていくのが互酬です。ですから、互酬には「全体」への暗黙の信頼感というのが大事です。
商品交換は二者関係が基本で、一応はそこで閉じています。ここで交換を成り立たせる、取引を成立させる「命がけの飛躍」というのが柄谷さんは大好きでしたが(笑)、確かにこれも大切なポイント。また一方、ここにも相場という名の「全体」が関与はしています。ただし、商品交換にとっての「全体」は、関与していたとしても「その取引」に対する第三項であって、取引と取引のネットワークに対して絶対的第三者としての「全体」が機能しているのではありません。「全体」は機能しているのですが、戸別訪問してくるので、ネットワークとか社会を取りまとめるようには動いてくれないのです。
これに対し、互酬での「全体」は、一つの互酬関係に「全体」がコミットするのではなく、互酬と互酬のダイナミズム全体が、「全体」という絶対的第三者と関係しています。ですから、「全体」への信頼と互酬ダイナミズム全体が、一蓮托生になっています。
ちょっと話がズレるのですが、このダイナミズム全体が「全体」と関係している、という面は、信仰について考える上で非常に重要です。
ジジェクが三位一体をラカンと重ね合わせ(これだけだと恐ろしくベタですね)、このうち精霊を「現実界としての信仰共同体」に対応させていました。もしかすると、信仰というのは要するに「信仰共同体」なのかもしれない。しかし、信仰が成り立つ上で、それを「信仰共同体」と言ってしまうことはできません。単に「王様の耳」だから、というのではありません。それは「王様の耳」としても名指すことのできないものなのです。「信仰共同体」は、それ自体としては取り出すことができない。だから、背後にあり駆動しているかもしれないのに、直接的な対象とすることはできないのです。
互酬ダイナミズム全体が「全体」と関係する、というのは、この精霊の関係に似ています。
贈ったり贈られたりする人たちは、一つ一つの贈り物関係と情念に突き動かされているのであって、ダイナミズム全体のことなど考えていません。そしてダイナミズム全体は、それ自体としては取り出せない。しかし、それこそが「全体」に対してエネルギーを注ぎこんでいる。これを成り立たせるには、現象としては父なる神への信仰が前提とされなければならない。この構図が、互いに寄り掛かるようにして成り立っています。
互酬的関係というのが、「交換様式の進化」により過去のものになったかと言えば、そんなわけはないのであって、例えば現在でも家庭内の関係には多いにこの要素が残っています。
これは時に面倒くさいもので、交換というその一点について見ると効率も悪いのですが、それでも互酬を全否定してしまうことは非常に危険です。
交換経済は交換経済だけで成り立つのではありません。交換経済は「全体」との個別契約によるモナド的な構図を成しているので、一見するとすべてを交換に分解・再構成して、経済を網羅できるように見えます。しかし、これをやってしまうと、非常にギチギチで「ほうれん草と言ったらほうれん草なんじゃ」という関係しか許さない隙間のない世界が出来上がってしまいます。
ほうれん草を買いに行ってほうれん草が買えるのは大変結構なことなのですが、そこには時間的なダイナミズムがない。意味の領野が窒息しています。「ほうれん草買ったから何だってんだ。どうせ死ぬんじゃないか」な世界です。それを言っちゃお終いでしょう。
時間的ダイナミズムがない、というのは、すべての意志が即座に実現できる者には自由がない、ということと等値です。意志がすべて実現されるのだとしたら、そこに自由はない。だからほうれん草が買えても嬉しくならない。
もう一つ重要なのは、互酬の中には商品交換的な関係が組み込まれている、ということです。
組み込まれてはいるものの、何となれば「花屋じゃなくて野原で摘んできてもいいや」な緩い関係です。買いに来る人もお花をあげる彼女のことで心が一杯で、花屋のことなんて大して考えちゃいない。花屋も割と気楽です。
本当のことを言えば、商品交換的な厳密な商売などというのは、野原で花を摘んでくることの間に合わせの代理にすぎないのです。
野原で摘んでくる方が先にあるのであって、その後で花屋が登場するのです。所詮代わりなんですから、大したものではない。買う側も買ってもらう側も、そういう謙虚さと寛容さがなければならない。
この厳密な関係が最初にあると思ってしまうと、ほうれん草しか許さない世界になります。そうではないのです。それは確かに買い手にとって便利ではあるのですが、結局は自分の自由を奪う結果になってしまう。そうならないためには、互酬ダイナミズム全体で「全体」という絶対的第三者と関わること(社会全体で神様と一緒に暮らす)、そして商売について寛容になることです。そんなもの、所詮野原の間に合わせの代理なのですから。
最後に一つ付け加えれば、信仰プロパーの面からも、これは大切なポイントです。
現代的な信仰は、「内面」の問題とされがちで、また信仰を持つ者も神様と信仰者の関係に還元してしまう傾向があります。もちろんこれらはとても大切なのですが、それだけでは信仰として片手落ちです。信仰には、全体としてコミットしなければならないし、信仰共同体にとっての信仰という面を重んじなければなりません。平たく言えば付き合いを大事にしろ、ということです。
付き合いのない信仰は、ほうれん草でガチガチになった商売と一緒です。隙間のない商売世界と、狭隘な現代的カルトというのは、一つの現象なのです。
参考:
いい加減柄谷さんをネタに出すのは気がすすまないのですが、互酬やら交換経済やらで非常にわかりやすい一冊として『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』を性懲りも無くあげておきます。
ジジェクの話は『否定的なもののもとへの滞留』のどこかにあった筈ですが(うろ覚え)、いずれにせよこれは外せない一冊なので一応読んでおきましょう。ジジェクで一冊読むならこれを薦めます。
「付き合い」については、三木亘さんの『世界史の第二ラウンドは可能か―イスラム世界の視点から』が非常に参考になります。