暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス) 山極 寿一 日本放送出版協会 2007-12 |
『父という余分なもの―サルに探る文明の起源』を以前紹介した山極寿一さんの著書『暴力はどこからきたか』。NHKブックスの新書ライクな本ですが、こちらは書き下ろしです。
食と性という二つの軸から、同族間の攻撃性がいかにして仲裁されるかを考える、興味深い一冊。個人的には、イスラームをはじめとする宗教規範やフロイトの言説が連想される部分があり、なかなかエキサイティングでした。
サバンナは森林に比べて捕食者の危険が多い。(・・・) サバンナに生きる霊長類はみな、森林で暮らす近縁な種よりも出産率が高い。(・・・)
人類は、脳が大きくなる前からたくさんの子供を抱え、複数の育児や食事の分配といった社会性を発達させる必要性があったということになる。
捕食者の多い環境での生き残り策として「多産」と「群れを作ること」が摂られたとして、これら二つは別の問題を引き起こす。多産であるということは、子育てのコストがかかるということで、群れを作れば、種内での同族トラブルの発生頻度が上がる。
この両方について、父性とインセスト、家族というシステムが有効に機能した、と考えられる。
(多産対策として)初期人類がとった方策は、子ども保護者を特定の男に限定するということだったと思う。類人猿でもっとも出産間隔が短いのはゴリラである。(・・・)オスの育児参加によってメスの出産間隔が短くなっている可能性がある。そして、それは授乳期間の短縮に結びついており(・・・)オスの子殺しを抑制する効果をもっている可能性がある。
子殺しはメスの発情を促し子孫を残す可能性を拡大するための現象と考えられているが、無条件に発動するわけではなく、抑制の機構もある。オスによる子殺しを防止する手段には、オスに父性を確信させる方向と、父性を混乱させる方法がある。人類が採ったのは前者の方法であると考えられる。
父性は父-息子間の性的トラブルを防止する働きも持つ。息子が母と交尾しないのなら、父は息子を性的ライバルとして扱う必要がない。
インセスト回避というと、劣性ホモ遺伝子の組み合わせを避ける、という素朴な機能主義的説明が目につくが、人間社会におけるインセスト回避をここに還元することはできない。むしろ人類以前よりあるこの傾向を利用し、性的な競合を弱めるための仕組みとして発達したはずだ。つまり、夫婦間のみに性行為が限定されれば、親子や兄弟姉妹は性をめぐる葛藤を高めることなく共存できる。父系の親族集団による共存・結束の構造だ。
こうして生まれた家族内、家族間のきずなは、食の共有によって強められた。人類は奇妙な食習慣を持っている。それは常に仲間と食事を共にするということだ。自分一人で食べられるものもわざわざ仲間と分け合おうとするし、仲間といっしょに食べるために食物を集めに行く。(・・・)共食はどの文化でも家族を越えた仲間に対して行われており、隣人に食物を与えない家族は軽蔑され、みんなに後ろ指を指されることになる。人類は性を家族内に閉じ込めた代わりに、食を公開して共同行為に発展させたのである。
共食というと、贈与という視点がすぐに連想されるが、古典的な「贈与」概念とは、与えることで相手に負い目を与えるものだった。
しかし、採集狩猟民の社会を研究すると、贈与は惜しみなく与えられ、与えられたものが負い目を負わされることもない。「分け与える」のではなく「分かち合う」のだ。
本ブログとして、最も注目したいのはこの点です。贈与ではなく、「純粋贈与」とでも言うべき一方向性。しとめたハンターが卑屈なまでに控えめな態度を取り、周囲も「獲物が小さい」などと文句をつけるまでのブッシュマン社会。食物の所有者ではない第三者が分配することもあるイヌイット。アカ・ピグミーの肉の分配については、こんな記述があります。
女性がバスケットに詰めてキャンプへもち帰った肉を、葉にくるんで仲間の小屋までもっていき、小屋の上に置く。受け取る方は表情も変えずに、投げられた肉を包んだり、置かれた肉を小屋の中にもっていく。分配された側がほとんど感謝の意を表現しないところがいかにも素っ気なく感じられるという。それは分配に際して、二者間の人格的な贈与関係を排除しようとする彼らの作法である。
ここから連想しないでいられないのは、『イスラーム金融―贈与と交換、その共存のシステムを解く』のエントリ触れた、「施しを受けながらむしろ堂々としているムスリムの乞食」です。
「わたし」「あなた」ではなく「われわれ」で考える、という点では、広義の共産主義が連想されるかもしれませんが、ここでは、いかなる形でも明示的な「第三者機関」が存在しません。党もプロレタリア独裁もない。しかし、苦労して得たものを惜しみなく分け与えるのは、やはり簡単ではないはずです。だから、目に見えない第三者が介入する。裁定者としての唯一神です。
与える側も、受け取る側も、アッラーを介して行っているがゆえに、葛藤が仲裁される。そこには死後の概念と名の水準が不可欠になりますが1、ともかく「見えざる絶対者」によって仲裁がなされます。根底にあるのは「贈与と負い目」つまり原罪的なものではなく、「圧倒的な純粋贈与」、返済方法がまったくない絶対の「気前良さ」です。神は気前良くわたしたちをお創りになり、わたしたちは気前良く与える、というわけです。
こうしたシステムが、交換の思想により汚染される傾向にあったことは想像に難くありません。交換は別段悪ではなく、原則として社会は交換により回っている。しかし、交換できる場をのものを成り立たせる根底のおいて、絶対贈与がなければならない。どちらか一方がもう片方を排除してしまってはならない。
クルアーンを読んでいると、再三にわたって「ケチ」が批難されていますし、アラビア語でبخيلと言えば、これ以上ない侮辱の言葉です。逆に言えば、人類は「ケチ」なのです。ケチが一人もいなければ、神様だってケチを批判する啓示を下さないでしょう。「気前よくやれ」という啓示が下ったのは、人々の気前がよろしくなかったからのはずです(まだタバコがなかったので、タバコ禁止の啓示がないように)。
神様による仲裁には、共産党一党独裁にはない独特の難しさがあるでしょうが、現実のマルクス主義にあって、結局のところ党が「最大の資本家」のように振舞ってしまうことが多々あるのに対し、イスラーム的な経済システムは、さまざまな困難を抱えながらも現実に存在し、機能しています。おそらくは、そのシステムにより社会を「完全に」は支配しなかったからこそ、多層的なシステムの一つとして、生き永らえてきたのでしょう。
ちなみに、この「すべてに介入するアッラー」という構造については、加藤博先生の『イスラム世界論―トリックスターとしての神』も平易です。
「すべてに介入」というと大げさですし、イスラームというと何かにつけ「単なる宗教ではなく生活全般に関わる」というフレーズが登場しウンザリさせられますが、要するに何かにつけ神様が一枚間に挟まる感じです。日本の文化で言えば「世間」みたいな曖昧なところでしょうか。
- 「疑えない死後、存在しない死後」参照 [↩]