国境を越える―滞日ムスリム移民の社会学 樋口 直人 青弓社 2007-10-21 |
「滞日ムスリム移民」といっても、本書の主題はあくまで「外国人労働者」。ただその大多数がムスリムであることから、「滞日ムスリム」という視点が自然とクロスオーバーする。イラン人、バングラデシュ人、パキスタン人を主とする出稼ぎ労働者の軌跡を追ったものだが、単に数字を追ったものではなく、具体的な個々人に密着し、帰国後の明暗まで追跡している点で、興味深い一冊。
目次は以下の通り。
序章 滞日ムスリム移民の軌跡をめぐる問い
第一部 移住と定住の分岐点
第一章 親族集団から個人へ -現代の遊牧民・トルコ系シャーサバンの日本出稼ぎ(稲葉奈々子)
第二章 作り出される労働市場 -交錯する求職ネットワーク(丹野清人)
第三章 「ガテン」系への道 -労働への適応、消費への誘惑(樋口直人)
第二部 移民コミュニティと越境するネットワーク
第四章 越境する食文化 -滞日ムスリムのビジネスとハラール食品産業(樋口直人)
第五章 トランスナショナルな企業家たち -パキスタン人の中古車輸出業(福田友子)
第六章 イスラーム・ネットワークの誕生 -モスクの設立とイスラーム活動(岡井宏文)
第三部 ふたたび越境するという経験 -故郷に帰ったムスリム移民
第七章 滞日経験のバランスシート -帰国の経緯とその後の状況(樋口直人)
第八章 消費社会のスペクタクルとトランスナショナリズムの逆説 -バングラデシュの移民家族と開発される欲望(樋口直人・稲葉奈々子)
本書はあくまで「外国人労働者」を扱ったものだが、読み進めながら、「労働」一般、そして「格差」「下流」といったキーワードで語られる我が国ひいてはグローバル資本主義の現状について、手触りのある形で想起しないでいられない。
例えば、外国人労働者の帰国の理由を巡る下り。外国人労働者の帰国理由は、景気の悪化による失業、というイメージがあるが、実際は仕事がなくなって帰る、というケースはむしろ少数派で、「家族のため」「入管につかまって」が多数を占める。そしてこんな理由を挙げる人もいる。
渡日直後は、勝手がわからず仕事と生活に慣れるのに精いっぱい、それが貯蓄もできるようになり滞日生活が軌道に乗ってくる。しかしそこからが分岐点であり、単に働いて貯蓄を増やしていく生活に耐えられるのは、よほど目的意識がしっかりしているか、禁欲的な者だけである。
あるイラン人青年は次のように述懐する。
タバコも酒もやっていないし、ディスコに行くような性格でもなく、遊ばないから金はあまり使わなかった。しかし、仕事ばかりで疲れた。娯楽がなくて発散する場がない。日本に長くいた人は、酒やディスコなど発散する場を見つけることを覚えたが、自分は疲れて帰国した。
本書では「ガテン系」、つまり肉体労働でお金を稼ぎつつ、酒やギャンブルで少ない稼ぎを蕩尽してしまう、というライフサイクルの罠について語られていて、これはこれで注目すべきポイントなのだけれど、一方で「ガテン系」にもハマることができず、ただ疲弊し故郷へと戻っていくパターンもある。その心の風景は、到底他人事とは思えない。「下流」に独特の病理があるとしたら、これは「中流」の病弊ではないか。
本書末尾では、「北」の消費スタイル自体が帰国労働者により「南」に持ち込まれる様相が描かれているが、一般に商品スタイル・生活水準というのは、一旦上げてしまうと元に戻すのが難しい。ある消費のパターンを身につけてしまうと、麻薬のように抜けられなくなる。だからこそ「ガテン系」には独特の問題があるのだが、一方で消費パターンを身につけなかった場合にも、別の陥穽が待ち受けている。イラン人青年にはまだ「帰る場所」があったが、帰る場所もない者はどうなるのか。それは「外国人」というより、むしろわたしたちの国が内部に抱える病弊のようにも思う。
ある様式に沿って消費することと消費しないこと、当たり前だが、どちらかが絶対的な善とか悪というわけではない。伝統的に「ケチ」を諌める教えがある一方、倹約を勧める教えもある。イスラームで「ケチ」が批判される一方、「日本人は貯蓄好き」というのは門切り型すぎ、程度の違いこそあれ、ケチも無駄使いも行き過ぎればどんな文化でも批判されるだろう。
問題は、消費の方向と程度に、歯止めが利かなくなってしまっていることだ。かつては、消費といっても程度が知れていて、限界を越えて消費する、あるいは分不相応な消費スタイルを習得してしまう前に、物理的な制約が入っていた。現代は、さまざまな形で「閾値」を突破させるカラクリが働いている。むしろ「閾値」を突破してくれる人たちが一定数存在する、あるいは「閾値」が突破され続けなければ、資本主義は成り立たないのだ。
たぶん、消費というのは、欲望に従ってお金を使う、ということではなく、様式の中での求めに応じる、というものだったのではないだろうか。御祝儀を払うみたいな感じだ。御祝儀は出さないというわけにもいかず、税金みたいなものなのだけれど、支出することで自分の「ちゃんと」ぶりを評価することもできる。そして、何だか正しい仕方でお金を使ったような気持ちにさせてくれる。そういう致し方なさと気持ちよさが入り混じった感じが、元々の消費というものだった気がする。
その外部、まったくの快楽的消費というものが、かつて存在しなかったとは言わないが、前景化されむしろ消費の本質であるかのように刷り込まれるようになったのは、資本主義の賜物に他ならない。
ではどうするのか、「正しい消費」のガイドとなるような倫理体系を回復するのか、と言われると、そう簡単でもなければベストの処方箋にも見えない。別段提案も結論もないのだけれど、「消費スタイル」との様々な葛藤の末に、帰る場所も持たない都会人は、もしかすると「失敗した」外国人労働者より悲惨なのではないか、とも思う。
なお、日本におけるムスリム・コミュニティについては桜井啓子さんの日本のムスリム社会が好著です。ただ、数字的なデータについては、既に少し古くなりつつあるかもしれません。