見えないレールと徒歩約600m、ソクラテス以前

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 見えないレールが予めあるというお話をしたのですが(見えない道)、レールがあってなぜそれが見えないかと言えば、他が見えてしまっているからですね。他が見えるというのは、こう、三次元的なパースをもったものとして世界が開かれている感じがあるからです。
 本当のところ、そんな風に世界はどこまでも続いていないのです。身体で言えば、突きとか言ったところでロケットパンチではないので手だけが好き放題なところに飛んでいくわけではなく、身体全体の連関の中でしか決定されません。師匠が以前に突然「手とか脚とか、そういうものはねえんだ!」と仰ったことがあるのですが、確かにその通りで、犬猫は手とか脚とかそんなことは考えないでしょう。考えてしまうのは手とか脚とかそういう言葉があって、視覚的な開きの中で言葉を位置づけていくからです。
 言葉で言えば、既に言語を十二分に習得してしまったわたしたちは、言葉が世界を記述しているようなナイーヴな世界観の中で生きています。これはもちろん、哲学的に考えればいくらでもツッコミ所のあるお話なのですが、そういう頭を使って考えることを全部一旦棚にあげますと、言語を使う、あるいは言語に使われる、つまり言語的存在として在るということは、その中に既に、記述可能なものとして世界が現前する、というイマジネールな世界観が込みになっているわけです。そういう大前提というもの抜きにわたしたちは言語的存在で在ることはできないでしょう。
 話がちょっとズレますが、ギリシャ哲学的なものを遡っていくと神話的なものが最初にあるみたいで、こういうのは色んな文化圏で言えることかと思いますが、この神話的な水準というのが延長としての世界の発見と同時的でしょう。記述可能で延々と続くこの視覚的世界は物語的なものです。

 ついさっき「徒歩約600mで山元に達す」との記述を見つけて、歩いても走っても600mは600mではないかしら、と常識的に考えたのですが、そこでハッと致しまして、やっぱり徒歩600mというのは確かにあるのです。こういうのを「徒歩約600mの気分」とか言ってしまうとわかりが良いのですが、わかってしまった途端に徒歩約600mは消滅します。徒歩約600mが何かというのを、換喩的水平的な方向に開いてはいけないのです。それは了解の為には有効でしょうが、それをやってしまってはせっかくみつけた徒歩約600mが延長としての世界の方に霧散してしまい、結局また記述可能な世界、物語というものに捕捉されてしまうのです。
 ここが勝負の分かれ目で、徒歩約600mなら徒歩約600mを連打で叩き込む以外に道はなくて、もちろん闇雲に「徒歩約600m!」とか叫ぶということではありませんが、例えばわたしはこれについて「徒歩600mからアジフライに進むのには勇気が要るけれど、ご飯に合う」と書いたのですが、そういう方向だけが文学的強度みたいなものにつながるのです。いや、このたとえ自体はあんまり強くないのでもっと良い方法を考えないといけないのですが。
 徒歩600mが見えないレールなら、その周りにある徒歩5分とか距離600mとかが見えている世界なわけです。視覚的で了解可能な物語。そういうものがなまじ見えてしまったので、徒歩600mが見えないのです。でも徒歩600mだって言語的存在としてわたしたちがここに来てしまったからこそ振り返って見つけられるもので、最初から「無!」とか言って徒歩600mを見つけられるわけではありません。
 「子ども時代は既にない」とはフロイトの言ですが、そういう形でなくしたものを振り返って初めてギリギリですくい上げられるのが、見えないレールです。
 手遅れになってからが勝負の始まりです。

 先日、ソクラテス以前はアリストテレスの記述を通してしか語られず、原テクスト的なものは断片的にしかない、というお話を伺っていました。「万物の根源は水である」とか、エライざっくりした話しかないわけです。アリストテレスもざっくりした話をするし、いやいやそれはざっくりしすぎでしょう、と直接探ろうにも、これまたなんだかわからない切れ端みたいのしかない。
 まず、アリストテレスという正史がある。正史は正史なので、正史でないものは偽史なわけです。正史というのは物語であり、既にわたしたちの前に否応もなく現前している三次元的パースペクティヴです。
 ここに偽史を敢えてぶつけてみる、というアプローチはあります。これはほとんどオカルトなのですが、正史は正史でテコでも動かないという前提で、偽史をぶつけるという効果は確かにあります。これが物語に物語をぶつける方法。ラカン的に言えば神経症=正史に対し倒錯=偽史を立てることで、政治的文脈などではこれはこれで機能するのではないかと思います。
 一方で精神病的アプローチというのがあって、そこでは換喩が丸っきり破綻して突然に徒歩約600mみたいなものとしてソクラテス以前が現出します。
 歴史修正主義も歴史修正主義批判も反文学でしかありません。

 徒歩約600mとかソクラテス以前というのは儚いもので、パッと現れてすぐに消えてしまうのです。丁度目覚めた時は鮮明だった夢がすぐに指の間からこぼれ落ちてしまうように。
 だから一旦レールを掴んだら離さないようにガッチリ掴んで何度も反復しないといけません。連打で叩き込むというのはそういうことですが、ただ反復してもやっぱり消えますね。
 ではどうするのか?というのはむしろこっちが教えて欲しいくらいですが、この夢のようなものに至る気分みたいなものを、自分の中にしっかり持って、それを色んなところにフックしておかないといけません。身体で言えばキーというかclueになりそうな断片をいくつも覚えておくのです。腰背の緊張感と肚から胸骨全体が前に出る感じと臀部からハムストリングスにかけての緊張とか、いくつか「宝探しのヒント」みたいのを明白に覚えておく。
 あとはスタミナみたいなものがあって、わたしにはないのですが、掴んだところからガッガッガッと辿ってどんどん言葉を紡いでまだまだやめない、そういう体力というのはありますね。これの鍛え方というのは、それこそわたしが聞きたくて、ずっと試行錯誤しながら苦労しているわけです。
 多分、書くしかないのでしょう。



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