石ころのお話

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 先日「羊夜話 石ころのお話」と題してお話会(トークイベント兼飲み会)を催させて頂きました。せっかくなので、その概要と捕捉?をちょっとメモしておきます。

 この「石ころ」というのは、トークでお相手を務めて下さった浅尾くんが使うワードに触発されて思いついたものです。彼は謙遜する時に「いやいや、僕なんて石ころですので」という表現を使うのです。普通、そこで石ころとは言わないですよね。わざわざ石ころなんてワードが出て来るところが面白いなぁ、と思っていました。
 彼の基準だと、世の中には「石ころ」と「そうでない人」がいるようです。彼はお芝居をよく観ているのですが、役者さんなんかは「そうでない人」。わたしも「そうでない人」みたいです。
 「そうでない人」を何と呼ぶのか、その辺は良い言葉が見つけられていないようです。「主人公」とかも試したことがあるみたいですが、主人公って意外と空っぽな物語の奴隷で、脇役の方が存在感があったりしますよね。ここでは仮に、「星」とか呼んでみましょう。
 彼の言いたいことはわかるんですよ。良し悪しは別として、世の中、華があって我が強く、すぐに人に覚えて貰えるタイプの人と、控えめで大人しくて主張しないタイプの人はいらっしゃいますね。そういう意味では、確かにわたしは前者タイプです。図々しいですから(笑)。
 でもそういう人が「星」なのかというと、そうでもないでしょう。単に「岩」なんじゃないかと思います。大きくて邪魔なだけです。
 人間、生まれた時は皆んな「星」なんですよ。パパママボクの世界にいるから、「わたし」は皆んな「星」なんです。
 でも成長するに連れて気づいてくる。「あれ、どうやらボクって星じゃないぞ? 石だぞ?」って。他にも似たようなのがゴロゴロいるわけです。
 これにいつ頃気づくか、というのは結構大切なポイントで、兄弟が多くて社会性の発達した人とかは割と早くに「石」自認を獲得します。一方、なまじ神童だったり一人息子一人娘でちやほやされていたりすると、結構な年齢になるまで自分を「星」だと勘違いしてしまうものです。そこで初めて「あれ、あたし意外と星じゃないかも?」とか気づいてしまうと、なかなか厄介なことはありますね。
 そういうのはこじれ問題とかとして多分世間一般でもそれなりに語られていますので、ここでは深追いしません。ざっくり言ってしまえば、人は(大きさの大小に多少差があるにせよ)大体のところ「石」ですし、でも心の中に「星」的なものもどこかあって、恋愛なり制作活動なり時には仕事なりで「星」的なファンタスムをフックして自分を慰めているものでしょう。この「星」というのは自分にだけは読めない背中に書かれた紋章で(ジョジョの背中!)、それを目に見える世界の中に発見するのがラカン流に言えば対象aということで、ファンタスムはこれにピン留めされることで成立します。

 ともかく、「石ころ」と聞いた時にわたしには一つのイメージが浮かんだんですね。
 それは、真っ暗な人っ子一人いない砂漠にぽつーんと転がっている黒い石、というものでした。すごく寂しい風景です。
 わたしはこれを聖典で見た気がしていて、あっちこっちひっくり返して探したのですが、見つかりません。さんざん考えてやっと思い出したのですが、ハーリド・アル=ハミーシーの『タクシー』という小説の第一章にあったものでした。
 この小説は作者がタクシーで体験した様々なエピソードをまとめた短編集で、いろいろな言語に翻訳されている評価の定まったものです。一応全訳してますので、ご興味のある出版社の方は是非ご連絡下さい!
 で、その最初のエピソードを簡単にご紹介しますと以下のようなものです。
 作者がタクシーに乗ると、そのタクシー運転手が大変なご高齢です。車もボロボロ。聞くと、もうタクシーを六十年以上も運転しているとのこと。エジプトを訪れたことのある方にはわかると思いますが、カイロの道路というのは戦場みたいな恐ろしいところで、タクシーとかマイクロバスの運転手は大抵気の荒い人たちです。そうでなければやっていけないでしょう。そんな世界に六十年。すっかり感服した作者は、「わたしのような若輩に何か教えることがあれば是非」と乞うのです。
 するとこのおじいさんが仰るのですね。
「漆黒の闇夜に、黒い岩の上にいる黒い蟻。そんなものにも、アッラーの恵みを与えられる」
 きょとんとした作者が「その心は?」と尋ねると、おじいさんは自分の身に起こったことを語り始めます。
 おじいさんはもうご高齢で、身体も悪くしていて十日ほど寝込んでいたのですが、「このままじゃいかん」と老体に鞭打って起き上がります。カイロのタクシー運転手というのは大抵の人がその日暮らしですから、十日も寝ていてはその日の食い扶持にも困るわけです。奥さんは「心配ない、お金ならある」と言うのですが、おじいさんは知っているのですね、奥さんがあちこちお貰いして食べ物をわけてもらっているのを。仕事に行くと言うと、おばあさんは「やめて、死んでしまう」と止めます。おじいさんは「じゃあアフワに行ってくる」と嘘をついてでかけます。アフワ(カフワ)というのは喫茶店のことですが、エジプトでは男性の社交場、日本で言えば地元の渋い居酒屋とかスナックみたいな感じです。男子たるものシーシャでも吸いながら甘いコーヒーを飲んで交流しなければ名がすたる、みたいな文化があります。
 で、よろよろと車を転がしていますと、道端で真新しいタクシーがエンコしています。「どうした」とおじいさんは寄っていきます。エジプト人はこういう時、決して見て見ぬフリをしません。もう、男を上げたくてたまらない、主の報奨にあずかりたくてたまらない人たちですから、鬱陶しいくらいに人助けのチャンスを待ってるんですね。で、話しかけますと、このタクシーの若い運転手が言います。「空港にオマーン人を迎えに行くところだったんだけどエンコしちまった、じいさん代わりに行ってくれねえか」と。
 オマーンと言ってもイメージのない方もいらっしゃるでしょうが、お金持ちの国です。エジプトは貧乏。上客ですね。それでおじいさんが空港にかけつけるとオマーンのビジネスマンが「いくら欲しい」と言います。エジプトのタクシーはこんな具合に交渉で値段が決まります。おじいさんは人が良いですからね、「いくらでも」とこたえるわけです。
 で、このビジネスマンはコンテナ預かり所に用がある貿易関係の人だったんですが、たまたまそこでおじいさんの孫が働いていて、何かの役に立つかも、と名前を教えるんです。エジプトはめちゃくちゃ「袖の下」で動く社会ですから、こういうのは大切です。
 で、仕事が終るともう一度ビジネスマンが聞きます。「いくら欲しい」と。おじいさんはやっぱり言いますね。「いくらでも」。
 するとビジネスマンがこんな風に言うんです。
「いいかい、ハッグ。税関では本当は1400ギニー払うところだったが、600ギニーで済んだ。つまり800ギニーが差分だ。これはわたしの金だ、つまりハラールだ。それから200ギニーが、タクシーの料金だ。これで1000ギニーだ。50ギニーはわたしからのプレゼントだ」
 ハッグというのは本来ハッジ(大巡礼)した人という意味ですが、ハッジしててもしてなくてもある程度の年齢のおじさんには敬意を込めてこう呼びかけます。ハラールなお金とは、「汚いことして稼いだお金じゃないですよ」という意味。で、1050ギニー。二万円程度ですから、大したことはないのですが、カイロのおじいちゃん運転手にとっては大変な金額なわけです。
 おじいさんは言います。
「わかるかい、お客さん。一回走っただけで1000ギニーだ。一ヶ月働いてもそんなに稼げないかもしれん。主がわしを家から出かけさせ、504の車を故障させて、すべての原因をお創りになったんだ。この恵みを与えるために。この恵みは、あんたのものじゃないし、この金はあんたのものじゃない。すべては主のものだ。これが、わしが人生で学んだ唯一のものだ」
 そう、それが「漆黒の闇夜に、黒い岩の上にいる黒い蟻。そんなものにも、アッラーの恵みを与えられる」ということの意味なわけです。
 
 それでわたしは一つ、聖典の中から思い出したんですね。クルアーンの31番目、ルクマーンの第16アーヤ。
 ちなみにルクマーンというのは多分アラブのフォークロア的なところにルーツのある人物で、その多くがヘブライ語聖書と被っているクルアーンに登場する預言者たちの中でもちょっと異色です。「賢者」という感じでわたしは好きですし、ルクマーン章自体、長すぎず平易な文体で、内容的にもあまり細かいことをグダグダ言うのでもなく(ごめんなさい)、地獄は怖いぞ的な脅しをかけまくるのでもなく、優しい気持ちで聞けるスーラだと思います。
 で、その16節。ルクマーンが息子に語りかける台詞です。

يَا بُنَيَّ إِنَّهَا إِن تَكُ مِثْقَالَ حَبَّةٍ مِّنْ خَرْدَلٍ فَتَكُن فِي صَخْرَةٍ أَوْ فِي السَّمَاوَاتِ أَوْ فِي الْأَرْضِ يَأْتِ بِهَا اللَّهُ إِنَّ اللَّهَ لَطِيفٌ خَبِيرٌ
「息子よ、たとえそれがカラシ種の一粒の重さであり、それが岩の中、または諸天の中、または地の中であっても、アッラーはそれをもたらし給う。まことにアッラーは精妙で通暁し給うた御方」(中田考訳)

 善行も悪行もアッラーは全部カウントされていますよ、というお話なのですが、ここにも岩が出てきますね。『タクシー』の中の岩もصخرة。石ころじゃなくて岩でしたし、大体『タクシー』のは岩の上の蟻なのですが、細かいことは目をつむってください。
 人は皆石ころなんですよ。星だと思っても、まぁ大概のところ岩とか小石とかそんなものです。主からご覧になればどんぐりの背比べというものです。でもそういうものも、主は決してお見逃しにならない。
 もっと言えば、人は皆石ころで、石ころ性を受け入れて大人になるのですが、心にどこか星がある。その星は仕事とか恋とかで報われる時もあるかもしれませんが、そうでない時もある。そんな時も、主は必ず見ています。人にとっては石ころですが、神様にとっては皆んな一人一人違う星ですよ。何せ神様なんですから、どこにどんな星があるか、全部ご存知なんです。
 日本でも「天網恢恢疎にして漏らさず」と申しますでしょう。つまらないものでもお天道様はお見逃しにならない、ちゃんと見てますよ、ということです。
 逆に言えば人間如きに「見てるぞ」とか言われる筋合いはないということで、神様でもお天道さまでも呼び方はなんでも良いですが、この世がある、一である、というものの中にあるその他大勢のごちゃごちゃした雑魚どもに偉そうにされちゃたまらない、というのもあるわけですが、まぁせっかくイイお話なので無粋なことは避けておきましょうか。

 とまぁ、こういう浪花節なお話をグダグダやったというところであります。あんまり宗教のお話ではありません。宗教嫌いですから(笑)。
 次の機会があれば、世俗派とか言われて叩かれているアフマド・アル=イシーリーさんのお話をしようかと思っています。この人なんかは同胞団系とかからボコボコにされていますが、本人は知的で敬虔な良い人だと思いますよ。わたしはたまたま家にまで遊びに行かせて頂いたことがあるのですが、こっちは別段宗教商売でもないし学者でもないですから、そういう縁とか雰囲気で物事見させて頂きます。全然宗教的じゃないところから、信仰のコアみたいのがポッと出て来るのが好きなんですよね。わたしはもう、コア的なもの以外あんまり興味がないので。
 まぁわたしのお話は三十分くらいで切り上げて(喉が弱いのであんまり喋ると疲れます)、後は皆さん、楽しくご歓談頂ければと思います。わたしはその辺で寝ていて邪魔しませんので、是非遊びに来てやって下さいませ。



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