運命に刺されても人の心は乱れるのですから

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 わかってしまったら終わりではあるし、わからないことが前提ではありますが、わかって欲しい、という情念からも逃れられないわけです。
 もちろん、わかってなどもらえませんね。そこは本当に、情念でしかないのです。
 正確に言えば、なにもわからないわけではないし、相当の犠牲を支払えばわかってもらえる取り分というのは存在するのですが、当然ながらこれは有限です。
 そしてこの有限な分を使ってわかってもらえたとして、では次の段階にすすめるのか、より「わかり」を深められるのか、あるいは対象範囲を広げられるのか、というと、そうはいかない。ここがとても大きなポイントです。
 せっかくわかってもらったとしたら、また次のわからない人がやってきて、同じことを最初からやり直すハメになります。
 相当に身を切ってわかってもらったとして、その「わかり」は別に下駄にはならず、毎回毎回うんざりするほど同じことのリピートです。
 全然、積み上がらない。
 自分一人の心の中とか技術とか知識とか、そういうものは積み上がりますよ。あるいは、チーム的なものでも可能かもしれない。でも「わかり」というのは境界、内と外の狭間で発生する問題ですから、そこには積み上がりません。
 毎年毎年似たような入門書だけ出してる感じになります。
 そうするともう「やってられない!」となるのは人情であって、「わからんでいい!」とも考えるわけですが、やはり、これはこれで極端なわけです。
 多分、ここでキャラというものが出てくるのです。
 キャラというのは動作ではなく状態。自動反応で出るリピートのようなものです。
 わかってもらえる有限な弾数が最初に決まっているとして、それをどこに振り分けるか、でキャラが決定されるのです。
 「わからんでいい!」と言ってしまうとキャラがなくなって、これは社会化されません。人々の間には立てない。別に立てないとダメというわけではないし、大抵の人は最初は立っていないのですが、立っておいた方が何かと気持ちも安定するし、お金が貰えることも多いし、得ではあります。
 キャラは結構、お金になります。割り切って毎年入門書を出してそれが売れるなら、別に悪い話でもありません。
 ではあるのですが、キャラに振り分けて使える「わかり」といのは大抵の場合一番初級、非常につまらないものなのですね。
 有限なスロットにそんなものを突っ込んでしまうのか、という虚しさはあるわけです。
 そこを泣きながら割り当てるのか。考える余地があればそこは考えるでしょう。考えない人は幸いです。
 「無理!無理!割り当てられない」と思いながらも、いつの間にか運命がキャラを割り当てていたりもするでしょう。
 後の分は、全部諦めるしかないでしょうね。

 諦めている割に、またぞろ変な名前を結び付けられて一々削られているわけですけれどね。放っておいてもらえれば、こちらとしては特に何もないのですが。人類の少なくとも半分の大半の方たちは、とても善良なので、人を面白おかしく晒し者にするのが大好きなのでしょう。
 本当に、とても、善良なのです。
 こういう気持ち悪さもまあ、誰かの悪意で呼び起こされるものでもなく、でも結局のところ、こういうものがどこかの段階で悪意に変換されるのですけれどね。
 誰か明白な悪意をもった者が最初にいて、それが強烈な悪を発揮しているというケースはまあ、稀だと思いますよ。
 致し方ないとか、出来心とか、うっかりとか、特に考えもなしとか、学問的な公平性とか、あるいは善意であるとか、そういうものが転がって転がって、あるところで悪意を惹起するのです。
 それを止めるということもまあ、無理な相談でしょう。
 止められればそれは、立派な人物かもわかりませんが、その先にも害は転がって、どこかでそれほど立派ではない人物にぶつかるでしょう。皆が皆、そんなに強いわけでもありません。
 運命に刺されても人の心は乱れるのですから。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする