多様性の殺すもの

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 これ、フラット世界の問題が端的に表れていますよね。
 もちろん、(いわゆるリベラルであり尚且つ)嫌煙サイドの理屈はいくらでも考えられます。副流煙がどうとか、いくらでも言えるでしょう。彼らの中では辻褄が合っているのだと思います。
 要は「多様性を認めろ」「寛容」と言ったところで、際限なく価値中立的で多様な世界を追求していくと、「シャブ打って道で日本刀振り回すことでしか生きがいを見いだせない人」の権利とか、際限のないところまで相対主義的に見てあげないといけなくなるわけです。そこで仕方がないので、一応の手の打ちどころとして「他害的要素」みたいなものが分水嶺に持ってこられるわけですね。他人に迷惑かけちゃダメ、かけなきゃ「多様性!」「寛容!」という訳です。いわゆるリベラル界隈では割と一般的な都会的スタイルだと思います。
 そういう軸に立っているから、喫煙についても副流煙なんかが持ってこられるわけですね。言うまでもなく、物理でそういう問題はあるでしょうし、また歩きタバコで火傷させる可能性などといったものは実際にあるでしょう。そういう問題ではなく、そこが理由として立てられる、という意味です。本当は「うぜぇ」「くせぇ」が理由だとしても、リベラルにはリベラルの忸怩がありますから、ちょっとそういうことは口にできない。何か「他害的要素」があってくれないと困るわけです。
 これこそ自由水平フラット世界、監視カメラの光る見通しの良い村、軍ではなく警察、敵ではなく犯罪者という価値観の世界です。

 こういう世界にも良いところが沢山ある、むしろ皆んなグローバリズムが大好きということは何度もお話しているので繰り返しません。良い抵抗と悪い抵抗などというものはないに始まる一連のエントリにお目通し頂けると幸いです。
 端的に、こうした世界観が前提としている他害の同定可能性、あるいは「プチブル個人主義」、これらを成り立たせている根本的な倒錯をしつこく告発しているのです。線を引くにしてもそこで線を引くのか、そもそも一本の強い線など引けるのか。その線自体が、彼らが誇らしげに掲げているお題目を殺しているはずなのですが、人間未満をいくら殺そうが眼中にもないということでしょうか。
 この世界における「個人」とは一定の教育と良識と理性的判断を前提とした相当にソフィスケートされた主体であって、近代の果てでようやく析出されてきた上澄み的個人に過ぎません。もちろん、そこに至らない人々を一網打尽で虐殺するかと言えばそんなことはなく、頭が弱いなら弱いなり、アル中ならアル中なりに「弱者」認定で救済します。逆に言えば「弱者」にならなければゲーテッドシティの内側から狙撃されて終了です。
 そういう訳で、残念ながら市民未満のバカクズマヌケどもはよってたかって弱者の切符を奪い合っているわけです。
 人類史的に言えばこうしたバカクズマヌケはもちろん、時にやりすぎてボコボコにされはしてきましたが、依然人間様の間を徘徊していたわけで、身内びいきとか情とか縁とか不透明極まりない複雑怪奇な人間関係の中で時に運良く生き延び、時に野垂れ死に、なんだかよくわからない結末を迎えていたのです。
 社会構造の表層は驚くほどの速さで移り変わるものですが、このあたりの人類学的余波というものがそうそう覆せるとは、わたしは考えていません。この速度で世の中すっきり綺麗になって、総じて見て得だとは、どうしても思えないのです。何より寝覚めが悪いし、面白くもなんともない。薄っぺらくて美学もヘッタクレもあったものではありません。
 大体がわたし自身ナチュラルボーンクズですから、そんな明るい世界ではすぐに日に当たって干からびてしまいます(笑)。
 「障害者は人に頼らないと生きていけないのではなく、頼れる先が限られている。健常者は頼れる先が沢山ある」というお話を聞いたことがありますが、あんまり頼りにならない依存先のチャンネルが無闇に多い方が真っ当だと思いますけれどね。

 ま、でもわたしは禁煙してますよ? 何度でも。どうですか、善良で健康的で理性的な市民ですよ。



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