そこでついえきらなかった言葉を

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 人類の半分の大半は、結局のところ、道を歩いているだけで罪になるという経験をされていないのでしょう。だから平然と、特に考えもなく、あるいは学問的公平性をもって、あるいは政治的社会的正義の元に、あるいは善意で、あるいは好意で、人に名前をつけ、良きに悪しきにつけ、それを陳列台に並べてしまうのです。ほとんどの場合、そこには一片の悪意もありませんし、この人たちの圧倒的大多数は良い人たちです。
 そうした暮らしに馴染んでいるから、ひとたび自らが何らかの名で括りだされて晒し者にされる、あるいはまた、まるで簒奪者の如く名指しにされると、防衛的な憎悪を剥き出しにしてしまう。それはそれで、人として極めて自然だと思いますし、よく理解できることです。ただこの人たちは、これほど多くの味方に恵まれていて、放っておけばまあまあの地盤を保てるわけで、しかも既に長い歴史をかけて築いてきた領土があるのですから、そこまで慌てる必要ないのではないか、と、四畳半ほどの土地しかもたない人々は考えるでしょうけれども。またそこで憎悪と嫌悪を改めて露わにするのであれば、そもそものはじめから心の広さなどひけらかす横風を控えた方がよろしいというものですし、しかしまた同時に、こうした振る舞いがこの人たち同士のある種の競り合い、心の広さ比べ、そうしたゲームによって醸成される絆の深め合いというものに因するだけだと解するならば、それはそれで筋が通っているとも了解はするのです。そうだとして、極たまさかに(!)自らに矛先が向けられた時に慌てふためく割に、怯えながら道を歩いているものが名をつけられ辱められるのを、人の世で生きる上で欠くべからざる試練と言うのも奇妙な話で、それはまったく、この人々が互いの友好を深め合う上でしばしば行っている、儀礼的なユーモアや親しみといったものとは異なるものなのに、まるでそうした親しみをもって、別の人々を包み肩を組めると考えるのは、ただただ目の開かれていないことに因するというより他にないのですけれども。
 この人々は、ある種の人々を見つけると、それを何か、括り出せるものをわかちもっているかのように勘違いし、名付け、生まれ持ったにせよそうでないにせよ、なにか内なる衝動であるか、嗜好であるか、志向であるか、己に向けてつけたがる名であるか、身の延長に対する果てしのない憎悪であるとか、そうしたものを巡っているかのように、物語を綴り始めるのですが、ことはそんな話ではなく、ここにあるのはただ生活、まったく血反吐を吐くほどにつまらない生活であって、それはつまり、多くの人々が当たり前のように行っている、職を得て伴侶を得て子をもうけるとか、そうしたことにすら至らない、ただ道を歩き用を足し身体を清め布を得て時には医者にかかるとか、そのような、地を這う虫の如き瑣末なものだけが、ただただ延々と地平の向こうまで連なっているのです。心であるとか美醜であるとか、そんな雲のような話など、まったくの贅沢品であって、もちろんそうした贅沢を誰しも望んでいるもので、この人々も例外ではないのですが、それを口にすることすら何か厚かましいような、そういう連続でしかなのです。そして贅沢に振る舞えばたちまち、ああこの人は名指しても良いのだ、眼差しても良いのだ、と、またぞろ人に名をつけ弄びたくてたまらない善人たちが、親しみを込めて、笑いかけてくる。そうでなければ、悲惨で可哀想で弱い者として、道の隅歩いていたまえと、そういうことなのでしょうが、本当のところ、この贅沢とは、半分の大半の人、あるいは残り半分の大半の人であれば大抵が楽しんでいる程度のささやかなもので、何故に溝の隅を歩かなければいけないのか、心のまとまらないところがないというわけではありません。とはいえ、わたし個人について言うならば、その根底にあるのは自らへの深い否定、より正確には、容れ物として与えられたこのもの、必当然的に脳髄も含むこの容れ物に対する果てしのない憎悪と切り刻みでありますから、そういう汚物のようなもの、最大限に切り刻み神経までを塗り替えてなお見るに耐えない肉の塊が、溝に捨てられるというのは、まったくわからなくもないのですけれども。
 一方で別の半分の人たちは、前の人たちに比べて圧倒的に言っていることもやっていることもよくわかるわけで、道を歩く恐ろしさというものを知っている人たちが決して少なくないのですが、それでもなお、数の上では大変に多いわけです。少なくとも味方の数には困らないのではないかと思いますし、大変な苦痛を背負わされてきた生活史が長いだけ、お互いに支え合う仕組みというのをよくもっております。これは大変に素晴らしいものですが、わたしとしては、少しだけ遠慮する部分もあるのが正直なところです。これは文字通りに、他意もなく、ただ申し訳ないということで、多少遠慮をしているのです。わたしは大枠において、この人々やこの人々の世というものが嫌いではありませんし、それはわたし自身の目に及ばないところで罵詈雑言を浴びせられているであろうということを含めて、なおその程度のことで道を歩かせて頂けるということに、やはり感謝の念が絶えないわけです。そこでこの奇妙で入り組んだ遠慮というものがあらわれるので、この人たちの声というのは、大枠において了解はできるのですが、これもまた、そうはいっても、数だけは沢山いらっしゃるわけで、そこまで慌てるほどのことなのだろうか、とはちょっと、思ってしまうところがあります。
 すぐさま石を投げられないからといって良いわけではありませんが、すぐさま石を投げられるよりは少しだけ良いのですから、そこは一つ、お互いに遠慮深く生きようではありませんか、という思いも、なくはないわけです。
 そうするとあたかも、味方の数か何かを問題にされていると、そのように解されてしまう恐れがあるわけですけれども、もちろんそんなお話ではなく、そもそもがその、味方なるものというのが、正に名指しにおいて、勝手に名付けられた醜悪な名であって、多くの人々は、ごらん、あそこに君の仲間がいるよ、君の友達がいるよ、その友達とわたしも友達だよ、などと極めて善良に、優しげに仰るのですが、もちろんその人はわたしの友達ではありませんし、その名が括りだされ置かれている場所とは、正に半分の大半の人々が穏やかな笑みと共に指差す、道の隅の溝以外の何でもないわけです。
 そうした諸々を含む人々の間にあるということが、生きるということではあるのですが、さほど生きてもいなくても生きてしまうというのが、この生の不思議なところで、どこか車窓の風景を眺めるようにしていても、時だけは流れ、どちらが外でどちらが内なのか、わからなくもなるのです。
 列車に乗り遅れた者は幸いです。
 名指してしまった時点、眼差してしまった時点ですべては手遅れなのですから、ここでは言葉というのはほとんど役に立たないわけで、ただ幸いなことに、人には自由に動く二本の手と二本の脚があって、それをもって、この世で最も公平に分配された力を行使するということもまた、いつでも可能ではあります。それはあまり楽しい結果を生むものではないので、大抵の人にとって、またもちろんわたし自身にとっても、好んで選び取りたいやり方ではないのですが、他に方法のない場面というのもまた、さほど少なくもないのです。そうした場面というのは、ある人々にとってはこの世のどこにあるのかも想像し難い希少なものなのですが、別の人々にとっては、好むと好まざるとによらず、しばしばとは言わないまでも、それなりに時々に巡り合うもので、まったくの個人的には、後者の人々に属してはおりますので、道を歩く時にはいつも怯えていますし、ただ怯えていては死ぬばかりですので、死に方というものをきちんとできますよう、日々修練だけは怠らないよう、恥ずかしくないよう、気をつけるだけ気をつけているわけです。それは単に、死に方の問題を気にしているからであって、死そのもののことなどまるで気にしていない、ということの裏返しでもあるのですが。
 まったくの余談ながら、しばしば道を歩く恐ろしさを味あわされている人類の半分の方々はよく誤解されているのですが、そうしたわかりやすい荒々しさというものにさらされる機会は、人類の別の半分の方が少ないかというと、そうでもなく、むしろ反対で、それはこの人達が互いが互いに荒々しさをぶつけあう習わしを、歴史的な経緯なのか生理なのか、そこはわからないですけれども、ともあれもっていることがしばしばあることによるものです。ですからこの人たちの背負ってしまっている業というものを軽く見てもいけませんし、この人たちにはこの人たちの苦しみがあるわけですが、しかし、ここでお話させて頂いております歩く恐ろしさというものの本質は、ただ荒々しさにより腕を折られ指を折られ鼻を折られるといったことではなく、そんなものはまったく、痛みのうちにも入らないもので、もっと内奥の、決して人が譲ってはいけないところを踏みにじられることにあるのですから、やはり一周回って、さほど大した話でもないとは言えます。この人たちは、ただ逃げなければ良いのです。引き受けて死ねば良いのですから、そんなに難しい話ではありません。そうした幸いに恵まれなかった運命を呪うにしても。
 ですから、こうした力の行使というのは、常に「こちら」からにならざるを得ないのであって、それはつまり、腕を折られ指を折られ鼻を折られるといった力より、遥かに圧倒的な痛みを伴う、破廉恥にして善良なる眼差しというものがこの世にあふれているからであって、そこで「こちら」は、あの人たちの枠組みにおいて字義通りに罪人となるのですが、罪人なのは元々としてこの世に呼び出される以上、さして失うものがあるわけでもありません。道で刑にあうか、暗い場所で刑にあうかの違いでしかないですし、それは確かに、道は大変に良いところですので、名残惜しさというのはありますけれども、それでもやはり、何かが決定的に異なるかというと、そういうものではありません。
 このようなお話自体、まったくもってどこに届くものでもなく、そればかりか、世に言うセカンドレイプとは正にこれであって、名指し自体、あるいは眼差し自体が辱めるように、自らの舌が己自身を不出来で破廉恥なものとして、見るに耐えないおぞましい汚物として、衆目に晒すことにしかならないわけですけれども。
 列車に乗り遅れた者は幸いですけれども、やはりそこは何とか、列車には乗ろうとするのではないでしょうか。
 こうした、言葉が役に立たないところで、なお言葉を発する、千切れた喉から流れ出る血というものがありまして、わたしが欲しいのは、そういう血、誰かの喉から吐き出された赤黒い汚物であって、それでこの世界での安寧を得られるということはないにしても、しばしの酩酊と休息くらいは与えてもらえるのも、事実ではあります。もちろん、そのような血を誰にでも求めることなど能うはずもないというものではありますけれども。
 良い人々を呪うべきではありませんが、良い人々以外に呪うべき人々はおりませんので、両手をかざし、祈りの文句が舌を離れる前に、この身が朽ちて、美しい血と肉へとかえることを、ただ祈ってはいるのです。
 そこでついえきらなかった言葉を、言葉を、言葉を。良き言葉でありますように。آمين



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