もう今は流行りではないのかもしれませんが、水に話しかけると美味しくなるだか病気が治るだか、そんな話をされる方たちがいらっしゃいますよね。まあ正直、ちょっと、それは、と思いますが。そういう方々を然るべき文脈で批判されている方は沢山いらっしゃいますし、その文脈には別段興味もないので触れません。
知(S2!)というものは無色透明で独立している、属人的ではない、ということになっています。少なくともそういう前提で知というものは成り立っています。
ここで科学論科学史的な意味での懐疑をぶつけることは可能なのでしょうが、それも本題ではありません。知の基礎づけであるとか、相対化可能性であるとか、そんなことは置いておきます。
ただある知についてある人物が触れ合った経緯というものは確かにあって、例えば詩や文学にそれと触れた時の状態、自分自身の持っていた世界に向ける眼差し、その時の自分にとっての世界の立ち現れ方がどうしても絡みついてくるように、知というものにも、そういう「夾雑物」が纏わりついてくるでしょう。
それは「夾雑物」ですから、知それ自体にとってはどうでもいいもの、排除したいもの、排除可能であるというフィクショナルな囲い込みによってギルドを成立させているものではありますが、わたしが気になっているのは、こうした「余計なもの」の方です。
ある知を動員することによって、それと一体となった気分というものが惹起されます。気分というと曖昧な感じですが、ここが一番大切なところで、気分があればそのラインでつるつると言葉が出てきますし、身体も動きます。気分がなければ出来事とか形とかわかっていてもそんなものは何の役にも立ちません。
ですから、知そのものに何らかの有用性があったとしても、纏わりつく気分に害悪があったり、好ましいものでなかったり、砂のようにざらざらしたものであるなら、知まるごとなかったことにしてしまった方がマシな時もあります。
同じ知について、まったくプレーンに、あるいは純然たる興味をもって接してきた人々がこれを惹起したとしても、気分の揺らぎというものはありませんし、結果的に今ここで再演される気分があまり美しいものでなかったとしても、その気分はその人自身の真剣なものであり、そこには何か、あるべくしてある必定というものが立ち上ることでしょう。
一方で、その知に向けて駆り立てていた気分に邪なものがあったり、あるいはまた、今この時点における気分に対し、その気分があまりに受け入れがたい、醜い、卑しい、そういう場合、今ここでその気分が再演されるとしたら、どうしても屈折したものにならざるを得ないし、そもそもがかつて得たその古い気分自体、既に概念化して形だけになっているでしょうから、真正なものとして再演されることはないでしょう。丁度、言語の中に移植された外来語が、その外来語のルーツとなる言語を正しく重厚に奥行きのあるものとして再演したりはしないように。だとしたら、極力そうした外来語的な気分というのは、「ここ」に持ってくるべきではないのです。
語りだし演じるものとしての知は無色透明ではないし(もちろん知自体に色があるのではなくその演じ方に色があるのだけれど)、何ならある人物にとっては、知というもの自体、それを飲み込み咀嚼した気分の全体が邪であり、再び呼び出すべきものではないかもしれません。
そうした気分というものを完全に脇に避けて、知そのものだけを呼び出すということが、わたしたちにはなかなか難しいのです。昔暮らした場所を訪れることで過去の思い出が蘇るように、記憶というものは頭の中にただ収まっているものではなく、外にあるモノや人と分かちがたく結びつき、そうしたものと一体となって、初めて励起されます。共有されうる知だけがこの縛りから逃れられるというわけではありません。
わたし個人にとって、少なからぬ知は汚染されていて、わたしではない何かで、少なくとも今のこのわたしにとっては異物でしかないし、そうしたものを極力呼び出さないで語ろうとしています。というより、そんなものを呼び出してしまっては、もう喉がつかえて言葉が出てこないのです。
過去に起こったことはすべてもう今ここにはないのであり、今ここにある気分はこれだけで、そこから記憶を辿って、つまり外のモノや人に纏わりついたものとして何か拾い出したとしても、多くはただの概念であって、しかも汚れていたりもするのです。
それらのモノや人は時を越えて人に追いすがるもので、そうしたものからわたしたちは自由になれないし、倫理の次元において責任というものがありますが、しかし、気分の次元において真正であるために、知や関係を呼ばないでいる、何なら血まみれででも振り切る、そういう時もあるのではないかと思います。
そういう人は、端的に「悪い人間」なのですが。