特に誰も傷つけずに為しうる善は、より一層見えにくい地獄への扉でしかない

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 このところ(無防備な善意を纏って)出回っている、ニュージーランドでの同性婚法案を巡る演説動画について、非常に重要な指摘がありました。

 短い中で言うべきことはもう言われてしまっているのですが、誰も傷つけず(傷つかず)に為しうる善に見えるものがあるとしたら、それは大体、より一層見えにくい地獄への扉でしかありません。
 上で指摘されている通り、こうした視点は「彼ら」と「我々」の分割、そして安全な「共存」を自明視しています。これは単に「自分自身の問題として考えないとダメだ!」などという、アフリカの飢餓とか地球温暖化とかを前にした時の社会科教師的な道徳ではなく、自らの内に巣食うもの、自分自身を内部から侵食していくものに気づかないといけない、ということです。
 この手の演説をもてはやすリベラルは、例えば社会保障分野で「弱者」に冷たい人たちに「自分たちが弱い側、病人や障害者になる場合を想像していない」等と指摘することがありますが、想像できていないのはこの人達で、それは想像というより、それこそ病魔のように向こうからやってくる底知れない恐怖です。了解可能な文脈を携え言葉にできる形で想像されるのではなく、明示し難いかたちで迫りくるものです。
 こうした種類の、エイリアンに卵を植え付けられるような気味の悪さというものをリアルに実感しないということは、それだけアングロサクソン流自我心理学的な意味で「安定」しているということでしょう。この「安定」は勿論、上の文脈で言えば「彼ら」を明白に分離することで初めて成立するもので、ユダヤならざるものとしてのヨーロッパの如き、排除の構造の上でもたらされる「確かな自我」です。「自他境界の明白な」「しっかりした人」が何を殺すことでできあがっているのか、仔細に観察しないといけません。ちゃんと見るということは非常に難しいことです。

 例えば選択的夫婦別姓などでも同じことが言えます。
 おことわりしておきますが、個人的には選択的夫婦別姓の導入自体には概ね賛成です。しかしそれが「無害」とも「誰も傷つけない」とも思ってはいません。ある種の攻撃として、嫌がらせとして、選択的夫婦別姓を食らわせてやってもよかろう、と考えているだけです。
 こうした制度について、「別に同姓を選択することも自由なのだから、何が失われるのかわからない」「誰も損をしない制度について、何を反対しているのか理解に苦しむ」といった声をしばしば見かけます。この「わらからない」「理解に苦しむ」は勿論、自らの不明を恥じるというより、侮蔑的色合いを含むものであって、「いもしない亡霊に怯える憐れで愚かな人々」に対する苛立ちの表明でしかありません。言うまでもなく、彼らが「理解できていない」何かが実際にそこにある、ということを第一に疑うべきですが、ここで言いたいのはそういうことでもなく、そこに合理的な何かが特にないのだとして、依然、何かはある、ということです。「亡霊」がそこにいるのです。
 その「亡霊」とは、境界を越え侵食してくるものであり、「我々」というゲーテッドシティが実のところスラムと地続きでしかないという不気味な現実です。気味の悪い、受け入れがたいものが、己自身の中に湧き上がりうるという不安です。
 フラット化した社会は、そうした不安を「個人的な問題」に帰属させ、良質なメンタルヘルスか何かを提供してお茶を濁そうとします。そればかりか、脳内物質や先天的器質「異常」に「原因」を求め、適切な治療、または「違う人」との「共存」を謳います。理解と思いやりの社会です。
 理解することは結構でしょう。もしそんなものができるとしたら! 本当に有効な理解などというものがあり得るとしたら、理解してしまうことで自らが内部から犯され変質するものでなければいけません。これに対する自我の自動防衛のようなシステムを無自覚に振り回しながら、ステロタイプ化された知識だけ身につけ「理解完了」のスタンプを貰い、結果、また一つ排除の構造が不可視化されるのです。

 広く言えば、そういうものがグローバリズムだということです。


 ここでのグローバリズムとは勿論、貿易の自由化だか何だかそんな小さな話をしているのではなく、「敵」の消滅、「狂気でもないのに全く話の通じない者」が無い者と想定される、ということです。「敵」は「犯罪者」となり、更に言えば「病人」「障害者」になり、可哀想な人として位置づけられ、適切な治療を提供されたり、公的に認められるべき「ハンディキャップ」とされ、そこへの理解、共存が啓蒙されます。これこそ「左傾化する」社会のスターリニズムです。憐れな犯罪者たちは、善良な市民により吊し上げられ、衆目の前で自己批判を迫られるのです。

 良き人々は、「明白な自他境界」を携えて己の陣地を確実に(かつ無意識的に)防衛しつつ、憐れな人々に対し空中から食料を投下します。ワンクリックでできる善意です。
 冒頭の文脈で言えば、例えば行政のアリバイ的支持を得て公共化する「LGBT」の四文字1、「アライ」などという片仮名が実に醜悪であって、体内に挿入されるプラスチック管のように不気味です。自分自身は当事者ではないけれど、当事者になることなどありもしないけれど、しかし自らの善性、このフラットな世界に寄与し忠誠を示すためにも、憐れな者たちを棒で打つことはやめておこう、今日のパンくらいは分けても構わない、という訳です。ネタバレのセクシュアリティでも触れましたが、この問題系とは、既に過ぎ去ったもの、自らの内に植え付けられてしまったものを、後になってから突然に思い出すものです。どこか外から、これからやってくるものではないのです。エイリアンの卵に気づくのです。そういう身を侵食される恐怖というものを、完全に不可視化した形で、冒頭の演説やそれを取り巻く「善意」は構成されているのです。
 この世界像の中に「敵」はいません。ボーダーの向こうからやって来る、訳がわからないのに依然ヒトの形をした、それを殺さなければ「生存権・生存圏」の脅かされる者、そうした者は予め排除されています。代わりに犯罪者と病人に対する温情深い法と秩序と治療がもたらされます。多分、ワンクリックで!
 お断りしておきますが、「敵」と和解せよ、などと言うのではありません。むしろ迷わず引き金を引け、ということです。もしかすると殺さないでも「生存圏」は守れるのかもしれませんが、それはよくわからないし、迷っている時間はありません。とにもかくも、来たならば撃て、です。念の為に殺しておいたりもするのです。それはつまり、こちらが加害者になるということです。
 わたしたちは善の弾丸で無用な殺戮も行います。撃つ相手は正当な(地続きの)法によって裁かれた犯罪者ではありません。ただの「敵」です。
 そうやってわたしたちは生きてきたし、今もって実のところ、そのようにして生きているのです。
 特に誰も傷つけずに為しうる善は、より一層見えにくい地獄への扉でしかありません。

良い抵抗と悪い抵抗などというものはない

  1. ひとり歩きする「LGBT」という言葉 記号としての人間はいないことを認識してほしい – wezzy|ウェジー []



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