『イスラーム思想を読みとく』松山洋平

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 松山洋平先生の『イスラーム思想を読みとく』。


イスラーム思想を読みとく (ちくま新書)

 あまりもうこの手の本の紹介を書きたくなくなっているのですが、この一冊は必ず読むべきでかつ簡単に読めますので、一応お知らせだけしておきます。
 後半は神学・法学の概説が多くなり、この手の書籍を見慣れている人にはおなじみの内容になりますが(その割に何回聞いても頭に入らない)、その辺が聞き飽きた、あるいは頭が痛くなるので読みたくない、というようなら、序章と一章、あるいはいっそ序章だけでも読まないといけません。

「戒律の宗教」(…)心で信仰するのではなく、何かしらの宗教儀礼をおこなうことで何かを達成・獲得することができる、「術の体系」のようなものと表現することもできるでしょう。
それに対し、信条重視の宗教というのは、(・・・)心のなかで対照が真実・事実であることを信じることがより重要視させる、「信条の体系」のような宗教です。

イスラームの教義では、「ムスリムであること」はイスラームの行為規範を守ること、イスラームのさまざまな宗教行為を実践することを意味するのではありません。(…)人は、心のなかに「信仰」を持つことでムスリムとなるのです。

「イスラームでは飲酒が禁じられている」。それはまったく間違いではありません。
(・・・)
しかし、(・・・)「酒を飲んだらムスリムではない」(・・・)と考えるとすれば、それはまったくの誤りとなります。
なぜなら、イスラームの基本原則として、「罪を犯してもその人の信仰は消えない」という考え方があるのです。
(・・・)
ムスリムが酒を飲んだとしても、「そのムスリムが飲酒という罪を犯した」という事実があるだけです。そのことによって、酒を飲んだその人がムスリムであることが否定されるわけではありません。
また、これは単に「神の目から見てムスリムであんくなるわけではない」というだけではなく、社会的にも、酒を飲んだ人に向かって「そんなことをするなんておまえはムスリムではない」と言ったり、考えたりすることも禁じられています。
(・・・)
反対に、たとえ、イスラームが命じているすべての義務行為を果たして、イスラームが禁じるすべての禁止行為を避けたとしても、それが神の命であると心の中で信じず、ただの慣習だと考えれば、その人はムスリムではありません。

殺人という大罪を犯した者であっても、信仰者の地位は失われない
(・・・)
戦闘をおこなっているということは、どちらか一方、あるいは両方共が、誤った根拠によって、同法であるムスリムに物理的な攻撃をしかけていることになります。当然、場合によってはその攻撃の結果同胞を殺害するわけです。しかしそれでも、この節(49:9)のなかでは戦いあう両方の集団が「信仰者」と呼ばれています。

一部の日本人から見れば、「テロリストもムスリムなのか?」という質問は、「テロ行為はイスラーム的に見て正当性を持つのか?」という質問と寸分違わぬ同じ質問に感じられるかもしれません。
しかし、ムスリムにとっては、だれがムスリムか否かをということと、その人のおこなった或る行為がイスラーム的に正当化されるか否かということはまったくもって別問題であり、分けて考えなければならないことなのです。

身体が罪を犯したとしても、それによって心に成立している信仰の存在が否定されるわけではありません。

罪を犯した人について、「彼は地獄に行く」と確信すること、つまり、悔い改めと赦しへの希望を失うことは、イスラームでは単なる誤りに留まるものではありません。それは、禁止される「大罪」に数えられ、場合によっては不信仰に値する罪であるとまで言われるのです。
(・・・)
ムスリムがどのような罪を犯そうとも、その罪が許される可能性があると信じることが義務となるのです。それは、人間の罪がどれほど深くなろうとも、神の慈悲はそれよりも深いのだと認めることでもあります。

「もっとも規範とすべき信者同士であっても、政治的に対立すれば殺しあうこともあるし、誤った解釈に陥り、ころしあうこともある」という事実を、人間の性として受け入れるのがスンナ派の態度です。

「戦っているからどちらかが善でどちらかが悪である」という考え方は、イスラーム的な思考ではありません。戦いあう軍勢のどちらもが善(”正しい”解釈をしているとは限りませんが)ということもあるし、どちらもが罪を犯している場合もある、と考えるのがイスラーム法的な見方です。いずれにしても、ムスリム同士で戦っているからといっても、どちらかの信仰が否定されたりはしないということです。

 新書ですぐ手に取れて文章も平易極まりないので、ごちゃごちゃ書きたくありません。もうこんなことは大前提として頂きたいのでお願いなので一読して下さい。

 松山先生はわたしもお目にかかったことがありますが、知性のみならず人格品位においても大変尊敬できる方です。文章からも全方位への配慮と優れたバランス感覚がにじみ出ています。
 大体、日本のイスラーム業界は飛び道具みたいな人ばかりが目につくのですが(笑)、松山先生こそは次世代のイスラーム研究を引っ張る本物の人格者なのではないかと思います。
 まぁ、よろしくお願いいたしますよ。



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