目印の瓢箪

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 ナスレッディン・ホジャ、あるいはジョハーの物語に、こんなものがあった。

 ある愚か者が、初めて大都会に行き、あまりの人の多さに驚いた。
 こんなに人がいては、どれが自分だかわからなくなってしまうと思い、寝る前に瓢箪を足首に巻きつけた。
 それを見た者が、眠っている男の瓢箪を取り、自分の足首に巻きつけて眠った。
 翌朝起きると、愚か者は隣で瓢箪を巻きつけた男が寝ているのを見つけ、とびかかって叫んだ。
 「お前がオレなら、オレは一体誰で、どこにいるんだ!」1

 この者はただの愚か者だろうか。彼の問いは基本的に正しい。
 わたしたちは、常に誰かの足首に瓢箪を巻きつけてしまっている。あるいは、目覚めた時には、知らない間に誰かの足首に目印が巻きつけてある。
 だから、むしろ驚くべきなのは、依然として何かが残っているということだ。これは誰で、一体どこにいるのか?
 重要なことに、この問いを差し向ける相手、という点でも、この物語は示唆に富んでいる。わたしたちは、鏡像aに問う。ところが、この者は、問いの答えなどちっとも知りはしないのだ。
 にも関わらず、彼または彼女にとって、答えを知っている可能性があるのは、瓢箪をすり替えた者、「わたし」として発見されてしまった者しかいない。答えのないところに問いが立てられた。
 男が瓢箪を外して、愚か者に返したとしても、もう遅いのだ!

  1. このエピソードは『スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承』に翻訳がある []