エンデの遺言、シルビオ・ゲゼル、イサカアワー、イスラーム金融

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4140804963エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」
河邑 厚徳
日本放送出版協会 2000-02

 ミヒャエル・エンデのラストインタビューを契機に、現行の貨幣システムがさまざまな現代的問題の根底にあること、現実に存在し、今も存在する「老化する貨幣」について、非常に分かりやすく展開してくれています。
 有難いことにNHK BS1の番組『エンデの遺言』の動画がアップされています。

 著作権的な状態がどうなのか知りませんが、一人でも多くの人が見るべき映像であり、是が非でもwebにあげるべきです。映像で興味を持たれた方は、こちらの書籍で詳細を知ることができます。

 非常に乱暴にまとめてしまうなら、お金の最も基本的な機能とは、交換の仲介です。ですから、お金は流通することで始めて意味を成します。
 ところが、今日の世界では、お金が独り歩きし、お金の流通量のほとんどが実質的な意味を持たない投機的性質に占拠されてしまっています。「格差」や環境破壊の根底にあるのは、この「意味を持たないお金」です。
 なぜこんなことになってしまったのでしょう。お金が永遠不滅で、価値を減らさないからです。減るどころか、何もしないでいると価値が増えます。利子です。つまり、本来流れることで機能したはずのものが、流れないことでかえって価値を増やしているのです。これは道路の真ん中に車を止めて、渋滞を解消して欲しければお金を出せ、とゴネているようなものです。
 もし利子がない、あるいはこの世に存在するすべてのものと同じように、時と共にお金が価値を減らしていくものであれば、誰もお金を貯めこんだりはしないでしょう。お金自体には何の価値もないですし、持っていても減るだけなら、お金の流通は活発になり、失業者を減らすことができます。
 それだけではありません。もしお金で持っていることに意味がないのなら、人は必ず、長期的な価値を持つものに投資するでしょう。何世代にも渡って恵みをもたらす灌漑設備や農地、林業、偉大な建築、そうしたものが「貯金」の代わりになるはずです。
 今日のわたしたちの世界を眺めてみて、そうした長期的な価値を持つものが目に入るでしょうか。十年で壊れる自動車、三十年で老化する建築、これらはすべて、「短期的な利益」を求めて濫造されたものです。それも「森を育てるより売ってお金にした方が得」なシステムに導かれてのことです。

 そうは言っても、すっかりわたしたちが馴染んでしまった利子というシステム、不滅のお金という概念をズラすのは、簡単なことではありません。
 しかしここに、「老化するお金」を構想し、かつ実現した思想家がいます。シルビオ・ゲゼルです。
 ゲゼルについては、沢山の優れたウェブサイトがありますし、本書でも易しく紹介されていますから、是非そちらを参照してください。
 一つ強調したいのは、ゲゼルの理論、自由貨幣(スタンプ貨幣、消滅貨幣)はさまざまな地域通貨という形で幾度も素晴らしい成功を収め、かつその度に「利子の味方をする権力」によって潰されてきた、ということです。決して机上の空論ではないのです。
 世界恐慌直後に、オーストリアのヴェルゲルを救った地域貨幣には、こんな宣言文が印刷されています。

諸君! 貯め込まれて循環しない貨幣は、世界を大きな危機に、そして人類を貧困に陥れた。経済において恐ろしい世界の没落が始まっている。いまこそはっきりとした認識と敢然とした行動で経済機構の凋落を避けなければならない。そうすれば戦争や経済の荒廃を免れ、人類は救済されるだろう。人間は自分が作り出した労働を交換することで生活している。緩慢にしか循環しないお金がその労働の交換の大部分を妨げ、何百万という労働しようとしている人々の経済生活の空間を失わせているのだ。労働の交換を高めて、そこから疎外された人々をもう一度呼び戻さなければならない。この目的のためにヴェルグル町の労働証明書はつくられた。困窮を癒し、労働とパンを与えよ。

 『エンデの遺言』では、今現在も利用されている地域通貨がいくつか紹介されています。
 大きく取り上げられているのはアメリカはニューヨーク州イサカのイサカ・アワー(Ithaca HOURs)ですが、カナダのLETS、ドイツのデーマークという交換リングなどの例があります。日本でも「千葉まちづくりサポートセンター」の試みがあります。

 本当に乱暴に概括してしまいましたが、以下は本ブログとして留意しておきたいメモです。
 まず「利子の禁止」といってすぐさま連想するのが、話題のイスラーム金融だということ。わたしは経済については素人ですが、本書の記述を読めば読むほど、ムハンマド様の教えとクロスオーバーしてなりません。何となく今まで、利子の禁止とは「不労所得に対する諌め」「働かないでお金を増やすなんてズルい」といった素朴な倫理的規定として受け止めていたのですが、そもそものお金の意味、本当に人を豊かにするプラグマティックな経済政策として理解しないといけない、と感じました。実際、現代のイスラーム金融は、その実践的なパワーを見せ付けてくれています。
 イスラーム金融については、ここではメモ程度にも語れないので、そのうちエントリを立てます。

 もう一つ、またイスラームと関係しますが、お金の性質が神にとても似ている、ということです。永遠不滅にして、それ自体は空洞である。要するに対象aですが、この点に注目すると、世俗的現代社会とお金の暴走、という構図が分かりやすくなります。
 別段宗教的なお説教をしたいわけではなく、もし敵が「壊れた神」であるなら、ことは簡単ではない、と自らを諌めているのです。
 「お金は人間が作ったものなのだから、変えられるはず」「お金は本来、人を幸せにするものだった」というのは、本書でも繰り返されている勇気付けられるフレーズですが、本当のことを言えばナイーヴに過ぎます。お金が神に似ているなら、本当にお金は人間が作ったのでしょうか。もちろん、発生論的・歴史的には「人造」に決まっていますが、構造的には、ある意味「お金が人間を創造した」のです。そしてお金=神は、別段人間を幸せにしたくて創造したわけではありません。神はただ創造するのです。神自らが栄えることが、第一原理です。ですから、「お金のためのお金」が暴走していることを、単なる人間の「うっかりミス」のように捉えていては、改革は必ず失敗するでしょう。
 敵はもっと圧倒的に手強いのです。
 分かりやすく言えば「人間は神=お金に支配されたいのだ」「人間は永遠不滅のものが何か欲しいのだ」となりますが、構造的真理を言うなら、お金=神の方が人間を創造したのだから、そんなことは当たり前なのです。
 仮に「人間のためのお金」「万物に等しく減価するお金」が成り立ったとしたら、人間はまた何か不滅なるものを生み出すことでしょう。そして今度の「不滅なるもの」は、現代社会のお金以上の怪物かもしれません。
 なぜ怪物になるのかと言えば、自分が「創られた側」であることを認めていないからです。認めないから、わたしたちが「望まず生み出された」という根源的な受動性は抑圧され、倍増された形、暴走する症候として返ってくる。世俗社会アメリカがイスラエルを必死で守るように。
 ですから、オカルトがかっていると思われるかもしれませんが、少なくとも一定の範囲で、創造と受動性について、認めてしまった方が良いと思うのです。わたしたちはそんなに自由ではないのです。
 イスラームにおける利子の禁止にせよ、日本人がかつて森を神格化して守ったことにせよ、そこには不透明で「オカルトがかった」要素が介在していました。こうした「宗教的」要素をスッキリ取り払って、その良いところだけ使おうとしても、きっと排除された要素は怪物として回帰することでしょう。
 排除するにしても、いきなり全部取り払ってはダメです。何でも「ゆっくり」です。神様は「本当に」大切なのです。「性急はサタンより来る」(アラブの諺)です。

 もう一つ些細なことですが、地域通貨というと、 柄谷行人氏のNUMを思い出します。NUMは惨憺たる失敗に終わり、web上ではNUMと「耄碌した柄谷」を揶揄する言葉が沢山ありますが、わたしは柄谷氏の行動には一定の評価を与えるべきだと考えています。文句を言うのは簡単ですし、実際NUMは失敗したのでしょうが、とにかくやるだけやった、行動した、ということは尊敬に値します。柄谷ファンの大学生が集まってオママゴトをしただけかもしれませんが、ママゴトすらやらない人間が高みから批判できるものではありません。失敗に学んだ若者が、挫けず蘇り、次の一歩を踏み出すかもしれないではないですか。柄谷氏ができなくても、次の世代が乗り越えるかもしれないではないですか。
 一つ残念なのは、柄谷氏自身が、NUMをネガティヴにしか振り返らない、ということです。開き直ったら良いではないですか。堂々としたら良いではないですか。とにかく「やった」というだけでも、貴方の行動には意味があったのです。そこに多くの失敗と罪、非道があったとしても、負債は丸ごと次代に残しなさい。その負債こそが、貴方が与えられる最大の遺産になるはずです。

4827203318自由地と自由貨幣による自然的経済秩序
Silvio Gesell 相田 愼一
ぱる出版 2007-05

「エンデの遺言」と「イスラーム金融」と大川周明: 園田義明めも。
ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』、神と完了、自由と可能性 – ish
奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ – ish