美は羊たちを静かな眠りにつかせ、愛は不愉快で避けがたい目覚めを仲裁する

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 <思考するわたし>が「見るわたし」だとしても、<存在するわたし>は「見られるわたし」ではない。
 というのも、わたしたちが「見られるわたし」と呼んでいるものは、正確に言って「見られているのを見ているわたし」でしかないからだ。
 <存在するわたし>は見られているかもしれないが、それは視覚というものが地上に存在することを知らずに見られている。
 「見る」「見られる」は共に「見る」営みの一面にすぎない。合わせ鏡の無間地獄に陥っているのだ。
 だから、まず「見られる」ということの不可能性に気づかなければならない。そちらの方向には何もないのだ。
 むしろ、「見る」ことに戻る。
 重要なのは、見ているか見られているかではなく、見ていることに気づいているか、だ。
 もしも見ていることに気づかなければ、それはただ見られている以上に、存在している。
 そして実際、わたしたちは見ていることを忘れることがある。
 仲裁するもの、美の発見、それを見つめる時、わたしたちは見ていることを忘れている。
 その時わたしたちは初めて、語の真の意味でただ「見られるもの」として存在しているのだ。

 だから、<存在するわたし>を回復するためには、世界を美しいものとしなければならない。ただ美の前にあるときのみ、わたしたちは視覚以前の存在を取り戻すことができるのだ。
 それゆえ、ヨーロッパが後に幻想化した意味でのファッショは、本当に唯一の正しい方法だったのだ。美しいものだけを残して滅ぼす以外、わたしたちはただ見られるがままの存在ではあり得ないのだから。同じ方法を実践した、あるいは実践しつつある人々、正しく美の虜となった者たちを、さまざまに見出すことができる。
 世界は絵のようなものとなり、わたしたちは見ることを忘れるだろう。
 この営みはやがて自らをも滅ぼすことになろうが、そもそもが「見るわたし」を滅ぼすための道なのだから、まったく完全な結末と言える。

 しかし本当に、これが唯一の方法だろうか。
 というのも、世界はまだ滅んでいない以上、何らかの形で、あり得ないはずの道が辿られたのではないだろうか。
 つまり、世界を斉一な美、神の展開へと回収し切れなくても、なお仲裁する不可能な可能性について、思考することができないだろうか。
 美に回収されないものとは、「そぐわないもの」だ。
 これは単に美醜の座標において醜いとされるのではなく、収まりきらない異質さを放つものである。「そぐわない」のは、本質において誤りではないのに、微細でかつ許しがたい差異を持つからだ。肌の色、ちょっとした仕草、言い回しなどの「些細な点」における「不正」。
 これこそが、わたしたちを静かな眠り、美の前で視覚というものを知らないまま見られている存在であることを許さない。「こいつらさえいなければ、わたしはゆっくり眠れるのに!」。そのような、微細なノイズ。
 だから、「そぐわないもの」は強い愛憎の対象となる。抹殺すべきものとなる。「そぐわないもの」からは目を離せない。

 なぜ「微細な差異」が愛憎の引き金になるのか。
 他者ははじめ、鏡像として現われるからだ。わたしたちは常に、他者(通常の「他人」という意味)を「基本的に話の通じる者」として扱う。モミの木や薬缶とは同じに扱わない。ディヴィトソンが「翻訳できない言語は存在しない」というのは、この文脈で理解しなければならない。川のせせらぎが言語ではないのは、わたしたちがそれに対し「翻訳可能なもの」つまり「基本的に話が通じる」として向き合わないからだ。
 基本的には通じるにも関わらず、細かいところでは通じない。
 言語の習熟や相互理解が進むと、共有できる部分は多くなる。共感できなくても、相手の文脈の連続性の中で、それなりに「そう考えるのも無理なからん」程度には「わかる」ようになる。そこで手を引くこともある。一方、残った何か、決定的に理解できないもの、ただ単に自文化と異なるだけでなく、相手の文化の連続性の中でも理解しがたいもの、あるいは「まったく無意味なもの」(!)が前景化してくることがある。
 「なんだこれは? まったくそぐわない、意味をなさないこれは?」
 これこそが主体の位置である。
 夢の中で現われては消える「無意味なもの」、それは主体だ。鏡像の中にそぐわないものを見つけた時、わたしたちは知らない間に主体を発見している。
 だからこそそれは自我の存立のために(ナルシシズムの維持のために)スケープゴートにもされるし、根拠ない愛着をドライブもする。

 「それ」はわたしだ。だがまったく、それは理解しがたく、無意味で必要なさそうに見えるのだ。

 ここでわたしたちは、世界が未だ完全な美の名の元に滅んでいない理由を知る。
 美しくないものを滅ぼさないとしたら、愛するより他にない。
 なぜなら、発見された「そぐわないもの」とは、美しいものの前で「見られるがまま」になっていたはずの、失われた<わたし>だからだ。
 美しくないものは、愛憎の領域にしか落ちない。
 美しいものは愛されも憎まれもしない。その時、愛したり憎んだりするわたしはいないのだから。

 だから、神の力が十分に及ばなかった現世において、愛が重要なのだ。
 しかしこの愛は、美しいもの以外すべて滅ぼさなければならない、という「見られるがまま」への志向、神への愛(それは愛ではないのだが)があって初めて成り立つ。
 攻撃性が愛に先立ち、美が攻撃性に先立つ。一番初めにあるのは、神と神に見られるがままの存在としてのわたし、視覚というものの存在を知らないわたしだ。
 愛は不可能なものだが、その不可能性が介入している限りにおいて、世界は存続している。愛とは、神が創造以後に世界に対して不断に介入していることだ。
 愛の不可能性とは、創造の不完全性と等価であり、不可能性の可能性は神の存在と等価である。