ガザ、罪悪感、犠牲

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 ガザのことでは毎日胸が締め付けられるようです。
 それと同時に何度も回帰してくるのは、なぜアメリカがこれほどまでにイスラエルを守るのか、アメリカのみならず欧州諸国全般もまた、他の国であれば到底許さないであろう暴虐に対し、いささか弱腰なのか、という問いです。「ユダヤは大票田なのだから」「ユダヤマネーが」といったプラグマティックな回答がすぐに返ってきますが、そこに還元して済むことなのでしょうか(湾岸諸国に限れば「アラブマネー」も侮れないと思いますが)。それを勘定に入れてなお、どうも割に合う取引をしているようには見えません。
 『イラク崩壊』についての記事でも触れましたが、多分、根底にあるのはある種の罪悪感なのです。
 罪悪感というと、すぐさま「ホロコースト」という話になるでしょう。現代の世界とは、第二次世界大戦の「戦後」(あるいは依然戦争が継続している)にすぎませんから、戦勝国を正当化するためにも「ナチスという犠牲」は何としても必要ですし、そのためにホロコーストを強調することには、またもプラグマティックな利があります(別にホロコーストが存在しなかった、などと言いたいのではない)。
 しかしここで言う罪悪感とは、ホロコーストに対する「罪滅ぼし」というお話ではありません。ホロコーストと言うなら、殺したのはナチスであって、ドイツ人がパレスチナに侵攻してイスラエルを樹立する、というのではないのですから。ナチスが漫画的なまでに「悪者」として歴史化されたのは、そこにヨーロッパのある種の戯画があったからであり、ホロコーストもまたユダヤ迫害という、ヨーロッパをヨーロッパたらしめるための「必要な外部」を生産する営みの一貫であった、ということです。
 しかし、これで話は終わりません。そのような外部を措定することにより内部の象徴経済を確立する、という体勢はいかにもキリスト教的であり、預言者の「先回りした犠牲」により予め罪を負い、それを返済しようとする運動を想起させます(「創始者の死」「見殺しにしてしまった罪悪感」が何度も回帰するのは、シーア派についても似た印象を受けますが)。
 そして罪悪感は、ユダヤ人自らの罪悪感ともパラフレイズします。「約束の地とはアメリカのことだ」という話があるくらい、お金持ちのユダヤ人はアメリカに住んでいます。イスラエルに入植したユダヤ人とは、概ねあまり豊かではなかったユダヤ人であり、アメリカやヨーロッパでそれなりの暮らしを手にしていたユダヤ人であれば、好き好んで前線基地のような入植地に住むわけがありません。そんなイスラエルを支えたのが、海外の豊かなユダヤ人から流入する資金です。つまりは、自分たちだけが豊かなアメリカに住み、貧しい同胞を前線に送り込んでいるという「罪悪感」が、イスラエルに流れ込んでいるのです。アメリカにおけるユダヤロビーにしても、こうした視点で解釈することも可能でしょう。

 言うまでもなく、これらは極めて乱暴な、陰謀論一歩手前のような素描であって、ここに還元するのは、プラグマティックな政治的解釈への還元以上に危険な飛躍です。それでも、イスラエルの前に虐殺されていくパレスチナの人びとを想うと、彼らが「まんまと自分たちだけ逃げおおせてしまった」人びとの罪悪感のために、犠牲として捧げられているように思えてなりません。
 乱暴ついでにもう一つナイーヴな連想を働かせるなら、イスラームには「原罪」という概念はありません。正確に言えば、文化的には存在はすると思いますし、シーア派の思想などでは原罪に近いような概念が中心に据えられているようにすら見えるのですが、少なくともキリスト教のように根本思想として埋め込まれてはいません。この「予め許可されている」思想的風土が、キリスト教から産み落とされた近代ヨーロッパの鼻についてならないのではないか、という想像も働きます。
 しかし原罪というなら、彼らの罪もまた、予め許されているのです。イエスは何のために死んだのですか。そして自らを殺した男すら、なぜ彼は赦したのですか。
 だから、キリスト者たちもまた、予め過剰なまでに赦されているのです。真のキリスト者であれば、そのことに気づいているはずです。ですから、意識化できない罪悪感に踊らされているのは、世俗社会の「元キリスト教徒」なのです。彼らは赦されてあることを裏切ってしまったが故に、罪悪感から逃げられないのです。

 その彼らが、パレスチナ人たちを「犠牲」にするのは、あたかもキリスト教についで産まれたイスラームという「子」を、犠牲と捧げているかのうようです(イスラームはキリスト教から「派生」したわけでは全然ありませんが)。しかしわが子を犠牲に捧げようとしたイブラーヒームに対し、神は羊を与えたではないですか。犠牲を捧げたくその気持ちは重要ですが、既に罪は赦されているのです。
 だから、必要なのは感謝することです。
 もう赦されてしまったのだから、罪を償う代わりに地に伏し神に感謝を捧げれば良いのです。
 わたしたちは、何かが不足しているから不幸なのではありません。過剰なのです。幸福が過剰であり、その捨て場所が見つからずにイライラして、後ろ暗い気持ちを振り切れないでいるのです。
 過剰なのだから、捨てれば良いのです。神様はどんな感謝でも引き受けてくださる偉大な焼却炉のような方です。

 元キリスト者たちよ、あるいは元ユダヤ人たちよ、あなた方の裏切りのすべては、既に赦されています。だから、犠牲を捧げる必要はありません。
 不安な時は、全力で祈り、感謝すれば良いのです。自らの善に怯えてはいけません。怖れは与えられた善を見えなくするだけです。
 いくら感謝したって、相手が神様なら大丈夫。地に伏している限り、わたしはあなたを決して撃たない。