言語への慣れ、物質的なもの

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 ガザ報道の新聞記事などを読んでいて、単語を辞書で引いた時に凄惨な意味だったりすると、ギュギュッと心臓が押えつけられるようです。
 ここで気になるのは、パレスチナの方には申し訳ないですが、「辞書を引いただけで辛い気持ちになる」現象の方です。おそらくその単語を最初から知っていたなら、もう少し気軽に読み流せたはずだと思うのです。
 アラビア語を学び始めた頃、病気に関する単語を覚えるのがイヤでした。病気の話を勉強していると、自分も病気になりそうな気がしたのです。こんな極端な例はわたしくらいでしょうが、「悪いことは口にするだけでも不吉な気がする」経験は誰にでもあるでしょうし、どんな文化にも程度の差こそあれ「不吉なことを口にすることへの禁忌」は存在するでしょう。
 幸い今ではインフルエンザの話もできるようになりましたが(笑)、最初は不吉な気がしても、その言葉を繰り返しているうちに段々と何も感じなくなっていきます。また「不吉なことは口にするな」という禁忌は、伝統のよく残っている環境において、より強く働いている傾向があるでしょう。近代化が進み、機能優先になればなるほど、言葉一つに一々神経を立てなくなります。つまり、個人レベルでも社会レベルでも、「言葉は言葉に過ぎない」ということへの慣れというのがあるのではないでしょうか。
 興味深いのは、「慣れる」方ではなく、むしろ「最初は慣れていない」という点です。というのも、象徴言語が象徴言語たるのは、正に「言葉は言葉に過ぎない」からです。
 フロイトの糸巻き車を待つまでもなく、象徴の働きとは何かが「ない」ことを示すことです。つまり連続的な物質世界に対し「仮想化」の網をかける、ということです。だとしたら「言葉は言葉に過ぎない」のでなければ、象徴言語は象徴言語として正しく機能できないことになります。
 そして「言葉は言葉に過ぎない」ことに一定の習熟が必要で、しかもおそらくは「習熟し切る」ことが不可能であるということは、象徴言語が完全無欠の仮想ネットワークではなく、どこかで物質的なものと接触している、ということを示しているでしょう。
 厳密に言えば、本当に接触しているかどうか、ということは、一番重要な問題ではありません。というより、これを「客観的に」検証することは不可能でしょう。重要なのは、「接触している」と信じられている、個々人ではなく、言語という他者の内部に「物質的根拠」への信が存在する、ということです。
 これは、ラカンの<父の名>を容易に連想させます。言語は象徴のネットワークでありながら、同時に象徴化し切れない何かを内部に抱えていなくてはならないのです。
 凄惨な単語で胸が痛む時、何かとても遠い記憶が蘇りかけるような気持ちがします。
 その記憶は、本当に蘇ることはありません。多分、蘇ることを禁じられているのです。
 ただ、その場所に何度でも接近し、「初めての再体験」を繰り返すことは、トリアスの夢が回帰し、転移が常に何かの転移であるように、わたしたちが「十分に仮想化されている」ことを保証する運動のように感じます。
 語学を学ぶのは、子供と遊ぶのに似ています。