『謎の独立国家ソマリランド』高野秀行、氏族社会、アル・シャバーブ

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4860112385謎の独立国家ソマリランド
高野 秀行
本の雑誌社 2013-02-19

 高野秀行さんの『謎の独立国家ソマリランド』。
 結構話題になっていたのですが、天邪鬼なので読んでいませんでした。とうとう好奇心に負けて手にとって見てびっくり。これ、メチャクチャ面白いです。久しぶりに寝食を忘れて一気に読んでしまいました。
 高野秀行さんは以前にご紹介した『わが盲想』のモハメド・オマル・アブディン氏を「発掘」した人物。本書を読んでみて、なるほどこの嗅覚の持ち主だからこそ、ああいう面白い人を見つけてきて、尚且つちゃんと売り出すことができるのだなぁ、と感心しました。
 高野氏はUMAハンター・探検家で、学術的な調査を行っている方ではありません。基本的にエンターテイメント的文章で売っていらっしゃますし、まったくの個人的には「倫理的」面で手放しで褒めるとちょっとマズいかなぁ、と思う面もなくはないのですが(笑)、非常に読ませる文章なのは間違いありません。余りにも「少年的」というか、精神的にマチストというか、「冒険家」として破天荒な一方、ジェンダー界隈については非常にステレオタイプで無遠慮な考えをしてかつ無自覚である匂いがし、そういう面は好きになれませんが、別に個人的な付き合いでもないのですから、大事なことではありません(高野氏に悪意がゼロで、「良い人」なのはヒシヒシと伝わってきます)。
 本書はタイトル通り、旧ソマリアにある国際的に認められていない独立国家「ソマリランド」がメインテーマになっています。「北斗の拳」のような紛争地帯にあって不思議な平和を保ち、独自通貨を持ち、そればかりか複数政党制による民主主義を実現している「ラピュタ」です。また後半では、「ソマリアの海賊」で有名なプントランド、「北斗の拳」の本場旧ソマリア南部地域も取り上げられます。

氏族社会

 面白い部分は無数にあるのですが、まず、氏族社会の説明。部族(tribe)と氏族(clan)を峻別すべきこと、氏族は戦国日本における「織田家」「武田家」のようなもので、言語・文化的な相違を含むものではないこと。これだけでも大変大切なことですが、遊牧民(系)社会において、氏族が「住所」のような働きをしている、という説明の仕方は、実に明晰判明で感動的ですらあります。
 農耕民系の社会においては、人は土地に縛り付けられています。土地は農民にとって「命」ですし、おいそれと移動するものではありません。そういう世界では、ある人物を「その人」として同定するのに、土地を使います。「○○村の与作」みたいな考え方で、現代日本でも「三丁目の山田さん」「川越のおじいちゃん」といった言い回しは使われますし、そもそも苗字には地名由来のものが非常に多いです。そのため、わたしたちの社会では、(すでに殆どの人は農民ではなくなった現代でも)住所のディレクトリ構造が厳密に切られていて、その最後に「その人」がいる仕組みになっています。「住所不定」というと、それだけで「社会の枠組み」から外れていることが暗示されています。
 一方、遊牧民系の社会では、人は移動してしまいます。場所が分かったからといって、その次も同じ場所にいるとは限りません。だから代わりに、血縁が利用されます(他のやり方もあるのかは知りません)。「○○氏族の○○分家の○○分分家の・・」と辿っていけば、故人を同定できるのです。

 要するに氏族は、日本人のような低住民にとっての「住所」もしくは「本籍」みたいなものだ。私の実家の住所は「東京都」「八王子市」「北野台」「二丁目」「笘凪・番地」である。それを外国人が「どうしてそんなに細かく分かれているんだ?」といえば、私たちはその外国人が馬鹿だと思うだろう。
 私たち日本人が重要犯罪で指名手配されたら、出身地、親族、職場のつながりなどでほとんどが捕まるように、ソマリランドでも、掟を破ったら氏族の網を通じて必ず捕まるのである。つまり、氏族間で抗争がないかぎり、治安はとてもよく保たれる仕組みができている。

 個人的に多少なりとも縁のあるアラブ人の場合、名前は「○○の子○○の子○○」のように父親の名前をたどっていく仕組みになっています。もちろん、現代アラブ人のほとんどは定住民ですが、これも遊牧民系社会の名残りなのではないでしょうか。

思ったことが口に出る

 入国行の時にエチオピア人ドライバーの言う「ソマリ人は傲慢で、いい加減で、約束を守らず、荒っぽい」という形容。実際、ソマリ人はせっかちで荒っぽくて人の話を聞かないようです。

 ソマリ人の傲慢さ、荒っぽさ、エゴイストぶりは、思考と行動の極端なまでの速さや社会の自由さと同根であることに私たちは気づいていた。
 ソマリ人は根っからの遊牧民なのだ。稲や小麦が育つのを辛抱強く待つ農民とちがい、半砂漠に暮らす遊牧民は乏しい草や水が今どこにあるのか、瞬時に判断して家畜を連れて移動しなければならない。基本的に一人か一家族で動くから、自分が主張しなければ誰も守ってくれない。

 これもアラブ人を連想させます。アラブ人はここまで酷くないですし、著者のスーダン人の友人(アブディン氏)すら「ソマリ人はめちゃくちゃ」という評がありますから、一緒にしたらアラブ人に失礼ですが、日本人から見た時のノリの方向性というのは、割と近い気がします。
 アラブ人でも教養のある人は全然違いますが、その辺のオッチャンとかのノリは、とにかく一方的で荒っぽいしモノはなんでも投げるし言ったことはすぐ忘れるし自分勝手だし、かなり無茶苦茶な人が沢山います。
 何より、思ったことは何でも自動的に口に出る超直情径行な感じ、そして言ってしまえばそこで気が済んでしまって、もう自分が口に出したことも忘れているような、この感じが、すごく懐かしいです。
 わたしも日本人としては何でも顔に出る方なのですが、エジプトにいた時は、今まで自分がどれほど人にイヤな思いをさせてきたか思い知らされました(笑)。

認められないがゆえの平和

 ソマリランドが平和なのは、逆説的にも、「国際社会に認められていない」からではないか、という指摘。

「俺はね、ときどき、ソマリランドは今の状態がいちばんいいのかもしれないって思うんだよ」
「今の状態って、国際社会に認められてなくて援助も投資も来ないっていう状態?」
「そうだ。南部がめちゃくちゃのままで、ソマリランドは平和になった。植民地とかヘール(掟)とかいろんな原因があるけど、もう一つの理由はソマリランドにカネになるものが何もなかったことだと思うよ」
 ワイヤップが言うには、ソマリランドはもともと産業なんて牧畜しかない。首都のハルゲイサも一時は廃墟になった。こんな貧しくて何もない国だから、利権もない。利権がないから汚職も少ない。土地や財産や権力をめぐる争いも熾烈ではない。
「でも、いったん国際社会に認められたらどうなる? 援助のカネが来て汚職だらけになる。外の世界からわけのわからないマフィアやアンダーグランドのビジネスマンがどっと押し寄せる。そのうちカネや権力をめぐって南部と同じことになるよ…」
 ワイヤップの言うことは瞠目に値した。ソマリランドは「国際社会の無視にもかかわらず自力で和平と民主主義を果たした」のではなく、「国際社会が無視していたから和平と民主主義を実現できた」と言っているからだ。そして「今後も無視し続けてくれたほうがいいかもしれない」と言っているのだ。

中央銀行不在ゆえの貨幣価値の維持

 旧ソマリアでは二十年以上前に作られた娯楽番組が未だに使い回しされ続けているので「好きな番組の世代間格差がない」というジョークが本書中にありましたが、旧ソマリア南部地域では中央銀行がなくなった後もソマリア・シリングが「使い回し」され続け、逆説的にも、その結果として価値が保たれている、というお話です。

 現ソマリアは「経済学の実験室」と一部で呼ばれている。経済学の常識を超えた現象があちこちで展開しているからだ。その代表がソマリア・シリングだ。
 旧ソマリア時代に発行されたこの紙幣は、二十年間、中央銀行が存在しないにもかかわらず、今でも共通通貨として一般の人々に利用されている。
 ホテルの宿泊代とか車を買うといった場合は、米ドルが使われるが、市場などで使うにはドルは額が大きすぎる。では、他にどんな貨幣がいいのか。一時は隣のケニアやエチオピアの紙幣も少し使われていたことがあったらしいが、結局、「こんなカネはなじみがない」ということで廃れ、誰もがなじみのあるソマリア・シリングに落ち着いてしまった。
 それだけではない。無政府状態になり、中央銀行もなくなってから、シリングはインフレ率が下がり、安定するようになった。なぜなら、中央銀行が新しい札を剃らなくなったからだ。
 旧ソマリア政権時代、財政の苦しい政府は、軍隊や警察を含めた公務員に給料を払うため、札を刷りまくった。おかげで、インフレがひどかったのだが、今は誰も新しい札を刷る者はいない。大半が二十年以上前の札をそのまま使っている。ボロくなりすぎた札は捨てられるから、総数は減ることはあっても増えることはない。だから、インフレが低く抑えられているのだ。
 その結果、シリングは普通に政府が機能している周辺国の通貨より強くなってしまった。今ではエチオピア領内のソマリ人居住域でも使用されているし、ケニア商人が財テクのためにソマリア領内に入ってシリングを買い漁ることもあるという。
 つまり、無政府になってからシリングは強く安定した通貨となったというわけで、経済学の常識を軽くひっくり返してしまったのだ。

 ハサン中田先生が金本位制を主張されていますが、このソマリア・シリングの事例をどうご覧になるのか興味深いです。

人質ビジネス、略奪経済

 「ソマリア沖の海賊」で知られるソマリアは、本書中でプントランドとして紹介されている地域のものですが、ここを訪れた際、高野氏は自分が「カモネギ」にされていて、いいようにお金をむしり取られているのを感じます。

 あるいはこういう言い方もできる。プントランドでは、外国人はどっちにしても拉致されるのだ。護衛の兵士にカネを渡して軟禁状態になるか、護衛を付けずに本当に拉致されて大金を要求されるか。前払いか後払いかの違いである。実際に半年や一年といった長期滞在なら、支払う額は変わらないかもしれない。

 これだけで興味深いお話ですが、そもそもの「治安」一般ということを考えると、より一層面白いです。
 本書中では、ソマリアの海賊の起源についても考察されており、ある研究所から次のような可能性を引用しています。
①外国人の不法漁業や不法投棄により魚が捕れなくなり、地元の漁師が生活のために始めた(プントランド政府の公式見解であり、ソマリア海賊に対する強行な姿勢に反対する人たちもしばしばこれを挙げる)
②もとは武装清涼が漁民を船頭として利用したのが始まりだが、やがて漁民自身がやり方を覚えて海賊に進化した
③内戦により武器が出回り、内陸で遊牧民が強盗をやるように、海では漁民が海賊を始めた
 そして実際にはこれらすべての要素があり、さらにそもそも彼らには「誘拐ビジネス」の伝統がある、ということが指摘されています。
 そのような伝統を「野蛮」と言ってしまうのは簡単ですが、リソースの少ない環境で生き残る為に、略奪が社会の一様式として成り立つのは珍しくないですし、そのように「戦争」が初めから社会に組み込まれているからこそ、その終わらせ方もコード化されうるのです。実際、ソマリランドはそのような伝統が生きていたからこそ、内戦を終結させることができました。ソマリランドの人々が「戦争が好きだから」終わらせることができた、という対話の下りがあります。
 ソマリ人ではなくアラブで言えば、クルアーンを読んでいると、彼らの伝統の中にそもそも略奪や戦利品を分け合うことが組み込まれていることが分かります。もちろん、現代社会でこれがそのまま通用する訳がありませんし、そうした伝統を持った人々であっても「戦争」やそれに類する暴虐行為がない方が(なくても生活できる方が)より望ましいのは言うまでもありませんが、原理的に排除するより、一つの可能性、一つの様態として秩序の中に含みこんでいる方が、泥沼化を避けることが出来るようにも思います。危機管理で言えば、「そんな間違いはあってはならない」で終わらせるより、「人は必ず間違えるもの」という前提で、間違えてしまった時の対応を用意しておくようなものです。
 話を戻しますと、ソマリ人の暮らしの中にはこうした様式がまだ色濃く残っているわけですが、別段ソマリ人でなくても、「食えなくなればアコギな商売でも何でもする」のはある意味当たり前のことでしょう。あるいは、「食える」「食えない」でなくても、ソッチの方が割が良いと思えばそこに流れるのが人というものです。
 安全だってタダな訳がなく、「前払いか後払いかの違い」で、前払いしておかなければ後で高い支払いを要求される、というだけの話です。先進国であっても、調子に乗って中産階級を破壊してしまえば、ヤケッパチになった人間が何をしてもおかしくありませんし、そうならないように分け前をばらまいておいた方が、全体としては安く済むように思います。
 ソマリ社会では、何かというと「応分の分け前」が要求されていて、なんだか理屈のよくわからないピンハネにピンハネが重なって、どんどん隙間にお金が落ちていくようですが、やり方はともかく、ある程度はこうして「蒸発」する分が見込まれている方が、適度な再配分が機能するようにも思います。あまり度が過ぎると、ただ不透明なだけの賄賂社会になりますが。
 ちなみに、海賊そのものについて言えば、本書中でも少し指摘されていますが、強行路線で武力で制圧してしまうのが一番の解決策のように個人的には思います。要は海賊が「割にあわない」ようにすれば良いわけです。内戦状態にしても、高野氏が言う通り、(紛争が援助マネーを呼ぶ構図を維持するより)「平和の方が割に合う」ような誘導を行うことが、結果として和平の実現が近づくのではないでしょうか。

アル・シャバーブ

 旧ソマリア南部で活躍するイスラーム「過激派」アル・シャバーブ。
 欧米諸国では当然ながら大変にイメージが悪く、ネガティヴな報道しかされませんが、「行ってみたら以外と民衆に支持されているんじゃないか」と思っていた筆者。しかしモガディシュを訪れてみると、予想以上にアル・シャバーブは嫌われていました。
 しかし一方で、アル・シャバーブにも支持基盤がないわけではありません。ここで高野氏は、「マオイズム」、農村礼賛思想を持ち出し、とても面白い持論を展開されます。

 でも、アル・シャバーブはどうなのかというと、また別の問題である。モハメドの話を聞いているうちに、タリバンと同様にマオイストなのではないかという思いが強くなっていったのだ。
(…)
 タリバンは国際社会からはイスラム過激派で、カルト集団のように思われているが、現地では相当イメージがちがうらしかった。その記者によれば、最初タリバンが登場したときはウォーロードたちの争いが終わり、人々は歓迎したという。そのうち、だんだんやり方が過激になり、不人気になっていったが、今でも一定の支持はあるという。(…)
 実際、私が自分で田舎を訪れると、その意味がすぐにわかった。
 タリバンはとんでもないと国際社会では言われる。
 テレビ、音楽、映画、写真撮影、サッカー観戦、飲酒、親族以外の男女が会話すること……そういったことを全面的に禁止した。逆らえば殺される。とくにそう訴えるアフガン人が都市部のインテリの人たちだから、説得力をもって聞こえた。
 だが、田舎に行けば、どうか。電気がない。したがってテレビもラジカセもない。カメラも写真屋もない。酒を出すようなレストランもないし、映画館もない。男女がふたりきりでデートするような環境でもない。
 要するに、村の人たちにとって、タリバンの「カルト的な禁止事項」はいっこうに苦にならないのだ。逆らう必要がないから罰を受けたり殺されることもない。
 アル・シャバーブも同じだ。彼らを支持している人たちが住むのは南部ソマリアでもいちばんの田舎だ。農村にはおそらく電気はいくらも来ていないだろう。そこではもともと、音楽も映画もサッカー観戦もなく、男女交流も酒もなかった。男が髭を生やすとか、ズボンや腰巻きを短くするとかも、とかのファッショナブルな若者にはともかく、村人にはとくにどうということもないだろう。
 つまり、全般的にはやはり苦にならなかったのではないか。だいたい、ソマリ人ほど他人にあれこれ命令されることを嫌う民族はいないのだ。それでもアル・シャバーブに従っているというのは、根本的に「あれこれ命令されている」という実感が薄いからじゃないか。(…)
 イスラム原理主義・過激派の思想は、「コーランの世界に戻れ」ということである。なぜ戻らなければいけないかというと、今の社会は堕落し、本来のイスラムから逸脱してしまっているからだ。その最大の元凶は、西欧文明なのだ。(…)
 もう宅k等の思想も同じだった。西欧文明は堕落している。本当の生活は農村にあると彼は言った。
(…)
 私たち日本人にも、「都会の生活は偽りでしかない。本当に人間らしい生活は田舎にある」と思う人たちはたくさんいる。私もときどきそういう思いに駆られる。
 マオイストは世界中の至るところにいるのだ。社会主義は瀕死だが、毛沢東主義はいまだに資本主義(市場経済主義)に対抗する最も強力なイデオロギーなのではないか。そして、たまたまイスラム圏にいるマオイストの過激派がタリバンやアル・シャバーブなのではないか。

 素晴らしく面白いですし、割と当たっている面があるのではないか、と思います。
 細かいところでは辻褄の合わないことが沢山あるでしょうが、要するに都会的・西洋的なものに対する漠然としたアンチ、「田舎にこそ真の生活がある」的な思想が底流を流れている、ということです。これは物凄く大雑把な話ですし、そもそも「都会的・西洋的」の時点でこの二つもイコールでは全然ないわけですが、大雑把であるがゆえに、普遍的に見られる心情ではないかと思います。この流れが具体的にどのような形をとるのか、過激になるのか穏健になるのかは、様々なパターンがあるでしょう。
 いわゆる「イスラーム過激派」について考える時、彼ら自身の言う建前通りに「イスラーム」が核にあるものだと思うと、ものごとの本質を読み違えるように思います。もちろん「イスラーム」の要素はある訳ですが、それはむしろ、彼らにとっての「正義」が「イスラーム」としてもとから用意されていた、そういう環境に彼らが生まれ育っていた、という話で、根底にあるのはもっと別の力動ではないでしょうか。
 ちなみに、アル・シャバーブについて語る前提として、いわゆる「イスラーム過激派」一般についての筆者なりの捉え方が語られていますが、これもかなり面白いです。その根底には、ワッハーブ主義とサウード家支配というサウジアラビアの矛盾があるのですが、その辺りの歴史的経緯は、確か『サウジアラビア現代史』が詳しかったように記憶しています。サウジアラビアという国の成り立ちと矛盾を知ると、ワッハーブ主義の流れを組む人々の一部が暴走していった経緯がずっと明快に理解できると思います。

高野秀行さんの他の著作

 『謎の独立国家ソマリランド』が面白かったので、同じく高野秀行さんの本を何冊か読んでみました。今までに読んだものを全くの個人的趣味で簡単に紹介しておきます。

『異国トーキョー漂流記』
 ☆☆☆
 日本在住の外国人と高野氏との交流を語った本。
 ここで面白いのは、「マフディ」という名前で紹介されているアブディンさん。やはりダントツでアブディンさんが面白いです。高野さんとアブディンさんにはいつか一度お目にかかってみたいものです。
 この本の中では高野さんの外国語学習がネタになっていることが多いのですが、教師のやる気がない、あるいはそもそも情報がないために、学ぶ側が必死になるパターンがいくつかあります。そして、不思議なことに、そういう場合の方がより身につくようです。
 わたし自身は大した経験がある訳ではありませんが、この情報に飢えて齧りつく方がうまくいく感じは、分かる気がします。リンガラ語に比べれば遥かに情報の多いアラビア語ですが、エジプト方言(口語)については日本語では初歩的な情報しかなく、それだけに一層やる気になりました。大体、何でも変に教える側が親切でもいけない気がします。やる気がないならやめたら良いわけですし。

『世界のシワに夢を見ろ! 』
 ☆☆
 これはエッセイ集のような、短編を集めたもの。
 
『イスラム飲酒紀行』
 ☆☆☆☆
 一応イスラーム教徒の端くれとして文句の一つも言わなければいけない気もしますが、正直面白かったです。これを「イスラム」と題につけて紹介するのはちょっとどうかと思いますが、まぁ売り方としては分かります。
 ただ、高野氏は自分では「酒が好きなだけでアルコール依存症ではない」と仰っていますが、これはもう依存症の領域に入っていのではないでしょうか。依存症の方はなかなか自分がそうだと認めませんし、分かっていらっしゃるでしょうが、アルコール依存症は本当に悲惨なことになりますから、治療を受けた方が良いようにも思います。大きなお世話でしょうが・・。
 まぁわたしも日本一いい加減なイスラーム教徒のつもりで、言ってることもめちゃくちゃですから、ここに出てくる人のことも高野さんのことも何も言えません。内容はドラマチックで読ませますよ。

『幻獣ムベンベを追え』
 ☆☆
 これが高野氏のデビュー作なのかと思います。
 わたしはUMAには全然興味がないので、その面では特に関心を持てないのですが、コンゴの人々との関わりは面白いです。また、現地到着後すぐマラリアになってずっと病気に苦しんでいた方のエピソードは、読んでる方がしんどくなって不安になりました。
 風邪で寝込んだって心細いのに、アフリカの奥地の湖でマラリアにおかされ、治して歩いて帰るしかないなんて、恐ろしいにもほどがあります。

『世にも奇妙なマラソン大会』
 ☆☆☆☆
 表題作他数編が収められているのですが、高野さんがフルマラソンを走りきれるのか、最初はそればかり気になっていました。すごいですね。わたしは身体の丈夫な人や喧嘩の強い人はそれだけで立派だと思うので、砂漠を走りきった高野さんはその一点だけでも凄いと思います。
 また、改名騒動のお話で、親切な都の職員の方に、わざわざウソをついたことを詫びる手紙を出すのが、心に残りました。高野氏の性根が良い人なんだろうなぁ、というのと、こういう感情が迸ってしまって止まらない感じが自分にもしばしばあり、他人事とは思えないです。多分、その職員の方はそこまで深く考えてもいなかったと思うんですよね。高野さんが一人で感激していただけで。まぁ、実際のところは見ていないので分かりませんが、わたしは割とそういう場面がよくあります。