『恋するソマリア』高野秀行、「郷に入らば郷に従え」という郷

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 以前にご紹介した高野秀行さんによる『謎の独立国家ソマリランド』の続刊です。

4087715841 恋するソマリア
高野 秀行
集英社 2015-01-26

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『謎の独立国家ソマリランド』高野秀行、氏族社会、アル・シャバーブ
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 前著のファンの方なら間違いなく面白く読める好著です。前著未読の方は、『謎の独立国家ソマリランド』から読み始めることをお薦めします。
 時系列的には、前著の出る以前からの取材内容も含まれていて、クロスオーバーする部分もあります。初めてソマリア・ソマリランドに突入する前著に比べると流石にドタバタ感は穏やかになっていますが、終盤のアル=シャバーブに襲撃される箇所などは「シャレにならん」感満載です。また、「他所行き」の文化ではなく、ソマリの家庭に入りソマリ料理を学ぶ、という目標も達成されています。
 高野氏がソマリ料理にこだわるのは、氏が「言語」「料理」「音楽(踊りを含む)」こそが、人間集団を形作る内面的重大要素と考えているからです。毎度毎度、突入地点の言語を苦労しながら学んでいるのもそのためです。目の付け所としては、その通りだと思います。

 ここからはわたしの個人的な連想なのですが、実はこの三大要素というのは、わたしが勝手に考えているところの信仰というものについても、ほとんど同様に当てはまるのではないか、と思い当たりました。
 「音楽と信仰」などで書いている通り、わたしは信仰というのは非常に「音楽的」なもので、聖典もあくまで音読される、あるいはそもそも文字というものを持たずに耳で聞いて流れていくものだと考えています。そして同時に、言語そのものが「音楽的」起源を持つ、という見方を支持しています。「言語」「音楽」という要素は、実のところルーツにおいては重なっていて、そうした詩的なものが、信仰の根にある筈です。
 信仰・宗教のことを「信念体系」のように見る見方というのがありますが、そうした部分があるにせよ、それは氷山の一角、外側からうかがい知れる極めて皮相的な面でしかないでしょう。あるいは、近代化・世俗化の結果としての世界観から、逆投射的に眺めたものに過ぎません。信仰はそんなに辻褄の合うものではありませんし、必死で辻褄を合わせて見せるようなやり方というのは、どこか倒錯的ですらあります。宗教がカルト的性質を帯びるのは、「信念体系」的な面が過剰に評価され暴走状態になった時なのではないでしょうか。
 このことは、言語の内部における古く粘着質の部分と、新しく抽象度の高い部分にも照応しています。どんな言語でも、ニュースのアナウンサーの言葉や新聞記事といったものは、一番外国人に取っ付きやすいところでしょう。そうした場面で使われる言語は、「お上品」で理路整然として、抽象度が高いのです。学術論文のような高度なものでも、その世界に通じてさえいれば、タームの単純な置換で翻訳的に理解できることが多いです。一方、下世話で低俗な日常会話やジョーク、詩文などは、言語の深層により近く、その言語を母語としない人間には敷居が高いです。英語で「国連難民高等弁務官」とか「炭素結合」なら言えるのに、「水道の蛇口から水がポタポタ漏れてる」とか「ガスコンロの火が出てるところ」とかは言えない、という人は沢山いらっしゃると思います。
 そもそも、言語、とりわけ語彙における抽象度の高い部分というのは、人類の歴史の中ではかなり最近になっていずれかの文明で発明され、そこから輸入されてきたものが多い筈です。それぞれの時代・地域で支配的であった、ギリシャ語、ラテン語、アラビア語、中国語、英語のような言語から「翻訳」されてきたのです。元が翻訳なのですから、翻訳的に理解し易いのは当然です。
 宗教における「信念体系」的な部分というのは、言語におけるニュース原稿のようなもので、外から見る分には透明度が高く取っ付き易いですが、「ことの本質」ではありません。「ことの本質」は、多くの場合、内部にいる人々自身も意識化・言語化できず、外にはなかなか伝わらないものです。そしてもしニュース原稿的な側面しかないような言語というのがあれば、それは非常に歪んだものでしょう。「論理的」な人工言語をもって自然言語に代えよう、というようなファンタジーが二十世紀の初め頃にはありましたが、これが言語の上澄みしか見ていない危険で表層的な考えだというのは、今となっては自明ではないかと思います。
 そしてもう一つ、「料理」というのがありますが、これも多くの宗教で食に関する禁忌が備えられていることと通底します。こうした禁忌について、食品衛生的な理由付けがされることがありますが、一面としてそうしたところがあったとしても、ほとんど後付の理屈でしょう。ムスリムが豚を食べても、ヒンズー教徒が牛を食べても、別に病気になったり死んだりはしません1。なぜダメなのかというと、単にダメだからダメなのです。多くの人々が慣れ親しんだ食のスタイルに不合理なまでの執着を見せるように、宗教的な食の禁忌も、別段「科学的」根拠がある訳ではありません。母語と同じように、身体に染み付いているだけの話であって、翻ってある共同体の徴として機能している訳です。
 ちなみに食についても、高野氏はレストランで食べるような料理ではなく、ソマリの家庭料理を追求しています。丁度日本におけるお茶漬けのように、当地の人々にとっては当たり前すぎて、メニューにもならないような料理です。これは丁度、下世話な言語や信仰における「ことの本質」のように、中の人々にとっては意識化するのも難しいような要素です。

 もう一つ非常に面白いのは、ソマリ人は「超速」で移動に抵抗がなく、極めて外交的な一方、非常に「内向き」な面がある、というところです。
 若者も含めて誰も西洋の音楽を聞かず、世界中に散ったソマリ人もそれぞれの居住地でコミュニティを持ち、ソマリ人社会の中で生きています。どこに行ってもソマリ人たちの中でソマリのやり方で暮らすのです。

 なんと言うべきか、ソマリ人はものすごく「内向き」な人たちなのだ。行動は超・外向きで、試行・感覚が超・内向きとも言える。
 もともと遊牧民だから、移動に抵抗がない。いとも気軽に外国に行ってしまう。その一方、行く先々のどこでもソマリのコミュニティを作り、その中で暮らす。アフリカの角以外の世界中にソマリ人は三百万人いるとされているが、外国人と結婚する人は一パーセントもいないという。外国に生まれ育った二世でもそうだというから恐れ入る。

 ここで思い出したのが、大分以前にある駐日ムスリムの集まりに顔を出した時、確かパキスタン人の方が放ったこんな言葉です。
 「郷に入らば郷に従え、と言うけれど、100%全部従うのは無理だ。日本人だって、外国に行ってもすべて向こうのやり方では出来ないだろう。ゴーに入らばヨンに従えくらいではどうか」。
 と、これは物凄いダジャレというか、かなりトホホなオヤジギャグなのですが、一面の真理も射当てています。
 ただ、わたしがこの発言を思い出して考えたのは、単に「すべてをホスト国のやり方では出来ない、適度な着地点を見つけられないか」ということではありません(この発言者の意図はそういうことだったかもしれませんが)。そういう問題意識もそれはそれでよろしいかと思うのですが、それよりも考えたいのは、そもそも「郷に入らば郷に従え」という考え方自体、この「郷」の個別的な風習なのではないか、ということです。「郷に入らば郷に従え」と言うと、ホスト地域の風習を尊重し軋轢を生まない、という意味で、一見すると公平で寛容なやり方のように見えるのですが、もしこの考え方自体がその「郷」のバイアスの結果なのだとしたら、特段ニュートラルでも何でもありません。
 おそらく、世界には比較的「郷に入らば郷に従え」系の考え方をする人々と、それとは逆に「どこの郷でも自分のやり方を通す」系の人々がいるのではないでしょうか。ソマリ人は元々遊牧民であったため、土地が絶対的な価値を持たず、それゆえに地縁ではなく血縁のネットワークが重視される、ということは高野氏の二冊の本でも言われていることですが、こうしたタイプの人々は、「郷」を重視せず、どこにいても自分のつながるネットワーク内での価値観を重んじることでしょう。それに対し、土地が命で、移動は気軽なものではなく、従って「郷に入らば郷に従え」的なやり方を重んじる人々というのがいて、おそらく農耕民系の人たちがこうした文化を持っているのでしょう。
 「ソマリ人にとっての氏族は日本人にとっての住所のようなもの」というのは高野氏の素晴らしい例えですが、彼らはある個人を同定するのに、血縁のネットワークを用います。ちなみにアラブ人も、名前は「○○の子○○の子○○」のように父親の名前をつなげていくスタイルです。対して、日本では名前(苗字)と地名というのが非常に深く結びついています。「三丁目の駄菓子屋のおばちゃん」的な見方で個人というものを捉える方法です。
 これは余談ですが、このように土地と人物が深く結びついている日本では、欧米やアラブ社会にしばしば見られる「人名を使った地名」というのがほとんど見られません。カイロの地下鉄には「サーダート」とか「ナギーブ」とか人名を使った駅がありますし、通りや広場の名前にもしばしば人名が使われています。ちなみに「ムバーラク」駅は革命後に「ショハダー(殉教者、ここでは革命の犠牲者たち)」駅に改名されました(クーデター後もそのままのようです)。こうした例は「ホーチミン市」など世界各地に見られるため、上の「郷タイプ/非郷タイプ」とは別に他の色々な要素が絡むでしょうが、日本における「人名を使った地名」の希少性には、そもそも多くの人名が地名から来ている、という要素が背景の一つとしてあるように感じます。
 話を戻しますと、「郷タイプ/非郷タイプ」ということでは、日本在住の諸外国人の人々を眺めても、ある程度傾向として言えるように思います。割りとすんなり「郷に従う」タイプと、なかなか従わずに自分たちのやり方を通すタイプです。このうち「非郷タイプ」を見ると、わたしたちはつい「郷に入らば郷に従えということを知らない困った人たち」という見方をしてしまうのですが、そもそもこの思考様式自体がわたしたちのスタイルで、すんなり郷に従っている人たちというのは、たまたま元から「郷タイプ」の文化圏から来た人たちである、という可能性があります。
 お断りしておきますが、ホスト地域への適応・非適応ということについては、個人の資質、家庭・社会階層が大きく関係するものです。一般に、高い教育を受けた技能のあるタイプの人々は、出自のネットワークから切り離されても自立できるため、適応性が高いことが多いです。対して、非技能系の人々は、出自のネットワークを活かし、その独自性を売り物にしないと生活できないため、内向きになる傾向があるでしょう。欧米での中国系移民でも、医者の中国系が非常に欧米化する(ホスト地域化する)のに対し、中華料理屋のオッチャンは、何せ「中国人」を売りにしている訳ですから、その出自によるアイデンティティをそうそうなかったことには出来ません。ですから、「郷タイプ/非郷タイプ」という「民族的」分類ですべてを切り分けようとすることは非常に危険であり、政治的には何重にも留保をつけるべきなのですが、人類学的な関心としては、多少の傾向として見て取ることが出来るのではないかと思います。
 ただ、そう言ったからといって、「郷に入らば郷に従えというのも所詮わたしたちのバイアスである、相対化しなければいけない」等と言いたいのではありません。そういう問題意識を持つことは有益かと思いますが、そうやってどんどん後退していけば完全にニュートラルな地点に到達できる、というのは幻想です。むしろ「何も言っていない相対主義」に陥るだけです。バイアスであることを意識しつつ、どこかで政治的・倫理的な選択をしなければならないところがあるでしょう。所詮、わたしたちは手の届く範囲の安寧と利害でしか動けません。「勝手な言い草だけど、ウチらのために郷に従ってくれ!」というのも一つの立場だと思います。

  1. もちろん、既に強い信仰心が構成されている人に無理矢理禁忌食品を食べさせたら、精神的・身体的不調をきたす可能性は大いにありますが、それは別の話です。当たり前ですが、無理矢理食べさせたりしてはいけません(笑) []



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