『エジプト言語ナショナリズムと国語認識』サーレ・アーデル・アミン

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4883030539エジプト言語ナショナリズムと国語認識―日本の「国語形成」を念頭において
サーレ・アーデル アミン Saleh Adel Amin
三元社 2003-01

 手に取った瞬間に素晴らしく個人的関心に答えた一冊だと直観したのですが、お値段がすごい(笑)。さんざん悩んだのですが、結局購入してしまいました・・。
 概要については、エジプトの言語ナショナリズムと国語認識 ―言語多変種併用と国民国家形成問題、日本の言文一致運動との比較において― 博士論文要旨に思い切りまとめられているので、これで十分かもしれません。書籍には資料が豊富に添付され、巻頭には便利な年表があります。アラビア語圏のダイグロシア的状況に興味を持っている方は、(お金があれば)手元に置いて損のない一冊です。

 というわけで、内容詳細についてはここで上の要旨を参照して頂く方が早いので、ここではナショナリズムと言文一致、という本書の主題について、勝手に妄想していることを少しだけメモしておきます。
 
 この話題について、web上で非常に面白いテクストを見つけました。田中希生さんによる言文一致論(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ) :: ex-signe ::というエントリです。柄谷を批判的に取り上げながら、以下のように指摘されています。

もしかりに、柄谷らがいうように、言文一致運動が国民国家を作りだしたというのなら、本来なら不可能である声と文字の完全な一致が、まがりなりにも実現したということを意味する。しかし、もちろん、それは背理である。だとするなら、どこかに嘘があったことになる。言文一致などそもそも可能ではないのだから、言文一致運動が嘘をついたとしか考えられない。本当は話し言葉そのままの記述などありえないし実用的でも実際的でも実践的でもないのだから、完成していないものを完成したと言っているだけなのである。つまり、虚構であり、もっとオブラートに包んだ言い方をすれば、想像上の出来事である。だとするなら、国民国家など実現していない、ということだろうか? そうではない。国民国家ができあがるのは、まさにここ、すなわち「想像」においてなのである。虚構として、想像力の産物として、国民国家は規定される。

 永遠の「写実主義」運動としてあった言文一致が、いつの間にか「完成」されたものかのように語られる。その同意を形成したのは、作家でも国家でもなく、読者=批評家である、というのがこのテクストの指摘するところです。
 言文一致と言語アイデンティティがネイションのファンタジーと分かちがたく結びついているのは論ずるまでもありませんが、その「主犯」をナイーヴに国家と措定して済むほど、事態は容易ではありません。ただ、個人的関心からより注目したいのは、「言文一致」は永遠の漸近線を描くだけで決して完成するはずのない運動であるにも関わらず、「わたしたち」がこれを、一応の完成を見たもの、とみなしていることです。
 ここから連想するのは、経験主義科学の成果が、あたかも「真理」のように大衆に受け取られている、という現象です。経験主義科学とは、反証可能性の開かれている限りにおいてvalidとされる永遠の運動なわけですが、「わたしたち」の多くは、ナイーヴに「進化論」や「地動説」を、教科書に書かれ確定した事項のように眺めています。永遠に手の届かない「もの自体」が、イマジネールな現実性とすりかえられるように。
 これは、大衆が無知ゆえに誤読している、ということではありません。むしろこのすり替え、勘違いによるファンタジー形成自体が、言語アイデンティティの、あるいは「科学」という幻想の礎を成している、ということです。言わば「勘違い」は折り込み済みなのです。
 
 何かが「捕捉された」とされることにより隠蔽されるのは何でしょうか。それは「実は捕捉されなかったもの」です。追手をまくには、自らの「死体」を提供することです。

 言文一致において「捕捉されなかったもの」とは、「言」そのものです。逃げ延びた「言」、不定形で始末に終えないものに代わり、死体としての「内面」が提供されます。この「内面」とは、書き言葉のリスト的・カテゴリ的思想により遡行的に再構成されたものにすぎないのですが、これが「個人」の自律性の核を為すものとして、「文」から分与されます。言語アイデンティティが強力なのは、「個」の基点としての「内面」が、同時に外在化され共有されうるもの、語りうるものとして提供されるからです。つまり、「わたしたち」にとって一番大切なものが、共通のエクリチュールに接続されている、という幻想が成立する、ということです。
 正確に言えば、「内面」のすべてがエクリチュールに回収されるわけではありません。語り得ない部分は、記述不可能な「心的」領域として、「内面の自由」として、留保されます。あたかもこの領域だけが、最後に残された「私的領域」のように囲い込まれ、その外側をネイションのファンタジーにより刈り取られていくのです。
 例によって信仰の問題につなげれば、それゆえにこそ、近代の信仰は「内面」の信仰となり、心的・私的領域に押し込められ、ネイションのファンタジーの高度に完成した世界では、「スピリチュアル」なものだけが残されることになるわけです。
 しかし、信仰とは本来「言」そのもの、わたしたちの「声」であり、その声は音として響き、身体を動かし、表出されるものであり、「内面」などという体の良いサンドボックスで弄ぶ「スピリチュアル」なものではないはずです。
 
 と、このような私的関心からの連想では、「言文一致」ファンタジーの業の深さの方に目が行くわけですが、一方で、本書が指摘している「言文の乖離」による実際的な問題、というのも理解できます。少なくとも「近代国家エジプト」の発展を目標とするなら、多くの「先進諸国」のような「言文一致」体制を形成した方が合理的である、というのは確かでしょう。
 ただ、本書で「中間言語」として取り上げられているスタイルというのは、既に社会のかなり広い層に受け入れられているし、例えば新聞の一般記事のスタイルというのは、「中間言語」に近い簡素なフスハーになっているように見えます。少なくとも古文調の古典的フスハーではありません。
 そして、こういう「現代フスハー」とアーンミーヤの使い分けについてなら、多くのエジプト人はそれほど苦にしていないに見えます。少なくとも、わたしたち外国人ほどには困難を感じていない(笑)。
 実際の彼らの語りや記述を眺めていると、この「スタイルの幅」をむしろポジティヴに活用しているようにすら見え、ある意味既に「エジプトなりの言文一致体制」は出来上がっているようにも受け止められます。現代小説などもほとんどはフスハーで書かれていますが、そのフスハーは、文法や基本的語彙こそフスハーですが、構文の選び方などはかなり「現代的」で、古典フスハーとは大きく異なります。この現代フスハーをエジプト式の発音で読む、くらいが、彼らにとっての「書き言葉として順当なスタイル」として、既に定着しているのではないでしょうか。日本語だって、日常生活でお喋りしているようなスタイルで新聞記事が書けるわけではありません。
 教育上ロスがあるとしたら、現代フスハーではほとんど用いられない多くの古典文法ですが、ムスリムに限って言えば、これらも信仰生活の上で役に立つことこの上ないわけで、日本人にとっての古文学習ほど「専門的」で浮世離れしたものでもありません。
 
 まぁわたしは所詮外国人で、しかもアラビア語が達者な訳でもないので、素朴な観察から受け止められる程度のことしか分かりません。
 本当はもっと色々と考えていたことがあったのですが、さっぱり考えがまとまらないので、とりあえずこの程度でポストしてみます。