『クラバート』オトフリート=プロイスラー

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4037261103クラバート
オトフリート=プロイスラー 中村 浩三
偕成社 1980-01

 ぼんやり上手 – ダーク児童文学へのいざないで紹介されていたのを目にして、購入しました。『大どろぼうホッツェンプロッツ』が大好きだったので「これは面白いに違いない」と確信していましたが、期待通りでした。
 ところが、この作品について何か書こうとすると、うまく書けない。「無理やりでもポイントを見つけ、自分の土俵に引きづり込みつつもっともらしいことを言う」能力については自信があるのですが(笑)、『クラバート』について何か書こうとすると、非常に素晴らしい作品なのに、どうにもひっかかりが見えてこない。
 なぜだろう、と考えてみると、『クラバート』の良さというのは、近代的な線形構造の物語性に由来するのではないからではないか、と思い当りました。
 『クラバート』は、ドイツの口承物語をベースにプロイスラーが書き下ろしたもので、後書きにはプロイスラーが加えた大きな変更点なども記されているのですが、あくまで元は口承伝説です。
 こうした物語では、今日的なストーリーテラーだったら「破綻している」と切り捨ててしまいそうなエピソードがしばしば語られるもので、『クラバート』の設定にしても、冷静に考えるとツッコミ所が沢山あります。しかし、どういうわけかツッコもうという気持ちにならない。
 こういう「破綻しているのにおかしいと感じさせない」圧力というのは、近代以降の作品やマンガや映画などでもあるものですが、口承物語の圧力と近代的圧力の間には、少し違いあるように感じます。サブカルチャーなどで見られる「有無を言わせない圧力」は、一点が盛り上がって、その訴求力が素晴らしいので、細かいところがどうでもよく見える、という傾向があるように思いますが、例えば『クラバート』の圧力は、もっと華がなくて暗い。牢獄につなぎとめられるかのような暗澹たるプレッシャーがあって、圧力といっても、田舎の閉塞感のような全体にジワジワくる圧力なのです。
 この感じは、個人的に古い屈折語や昔の教会建築に感じている「空間の無さ」、太い柱と柱が互いに寄りかかり合うようにして構成した、不自由さ故の安定に通じるようです。

 この圧力が全開のままでは、口承物語としては良くても児童文学としては読みにくい、と判断されたのか、プロイスラーはいくつか大きな変更を加えています。
 その最たるものが、最後に主人公を「救出」するのが、母ではなく村のソプラノ歌手の少女とする、というものでしょう。
 原型通り「母」が救出するとしたら、この物語の印象は相当異なるものになります。そして、結果として想像される「閉塞感」こそ、逆説的にも、この物語の凄味を構成している圧力そのものです。
 母が少女に取り換えられることで、物語は線形的構造を得て、未来に向けて進んでいく「開き」が生まれます。これこそ、近代的物語の本質と言って良いでしょう。循環し一か所に留まるのではなく、構造化され先へ進んでいく知。故事成句的な知ではなく、抽象化・構造化する知。
 プロイスラーが見事なのは、この組み換えによって児童文学として楽しめる開放感を与えながら、一方で物語自体の生命を、きちんと前近代的閉塞から受け継いでいる、ということです。少女による救出のエピソードは、確かに物語に方向を与え、そして何より物語に「終わり」を提供しているのですが、そこが『クラバート』の肝かというと、全然違います。読者は、むしろ副流的エピソードとして、この点を受け取っているでしょう。『クラバート』の魅力は、細部のおどろおどろしいエピソードにあるのであって、「ハッピーエンド」に向けて走っている流れにあるのではありません。

 「『声の文化と文字の文化』ウォルター・J. オング」以降、何度も援用している「声の文化」と「文字の文化」の対比で言えば、『クラバート』のような作品は、「声の文化」から受け継いだものを、うまく「文字の文化」に移植した成功例の一つと言えるでしょう。
 「音読すべき聖典、カルトと識字能力」で、「一次的な声の文化」で醸成された知を、識字能力が当然となった社会で文字として受け取ることの危険性について触れました。「郷に入らば四従え」の中段でも、故事・成句的な知を「文字通り」に受け止めることのカルト性に、少し言及しています。
 後者のエントリに追記しようかと思って放置していたのですが、この「注意」だけでは素朴にすぎるところがあります。文字通り「文字通り」(!)に読み取ることが危険だとしても、隠喩的メッセージを抽象すれば良いかというと、それも違うからです。
 解釈と言ってしまえばいかようにも読め取れるわけで、それはそれで暴走の一因ともなります。イスラームが「イジュティハードの門」を閉ざしたのもそうした警戒心からでしょう。もちろん、だからといって解釈を一切閉ざしてしまえば閉塞を生むのは自明であって、ここに一つのディレンマがあります。
 非常に重要なのは、「文字通り」に受け止めることが誤読だとしても、一方で「隠喩的メッセージの抽象」もまた、当初想定されていた「正しい使い方」ではない、ということです1。受け止める側の思考様式も異なれば、そもそも文字に起こされる(対象化して一覧することができる)前提ではなかったのですから、わたしたちがすぐに思いつくようなオプションでは、いずれにせよ曲解につながるのは当たり前です2
 結局、「声の文化」な知に慣れ親しみ、そこへの共感能力に秀でた限られた者が、「再-創作」するくらいしか道はないのですが、こう書いているだけで、この道には無理があります。再現性がまるで見込めないからです。だからこそそれは「再-創作」なのであり、その「再現性の低さ」は、「声の文化」における詩人や語り部の希少性と丁度釣り合うのではないでしょうか。
 識字能力は一般化し、文字情報へのアクセスは圧倒的に容易になりましたが、言語の深い力をサルベージできるのは、依然として「字の読めるようになった詩人」だけなのではないでしょうか。

  1. この点について、いわゆる新約聖書の福音書だけが、数ある聖典の中で非常に特異な位置にあり、それが近代以降のキリスト教社会のあり様に大きな影響を与えているのではないか、という気がしています。福音書は露骨に「隠喩的」ですが、一般に古い宗教的テクストは、こんな「現代的」印象を与えません。聖書の他の個所を読むだけでも自明です。わたしは聖書をほとんど翻訳でしか読んでいないので、ギリシャ語の状態でどういう印象を与えるものなのか知らないのですが、もし福音書成立期からこのような「テイスト」を醸し出していたとしたら、キリスト教こそセム系一神教の異端児と言えるのではないでしょうか []
  2. それでも、とりあえずいずれか一つわかりやすいやり方をしろ、というなら、解釈で乗り切るのは妥当ではないかと思います。少なくとも額面通りに取るよりは、危険が少ないはずです。解釈には多様性があるが故に、合意という社会的圧力があり、極端な「解釈」に対して、周囲が対抗する手段がまだ残っているからです []



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