小っさなムスリムに話しかける

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 日本人へのダウワについて書いたばかりですが、今日ブラブラ歩いていたら、ちょっと良いことに気付きました。
 多分大切なのは、ムスリムに話しかけることです。
 「その人の中の、小っさなムスリム(またはムスリマ)に語りかける」ということです。ある人の中に、ムスリムを発見する、ということが第一歩なのではないでしょうか。少なくともわたしは、そういう語り方をしています。
 といっても、ある人物の些細な行動様式とか道徳的特性を取り上げ「それはムスリムと一緒だ」「まるでムスリムのようだ」というのでは全然ありません。こんな語り方は手前勝手なもので、言われた方は自分の大事な何かを掠め取られたようで、良い気分はしないものでしょう。
 日本人が割とお上品であることを取り上げ、ムスリムが多数派の国のムスリムが「まるでムスリムのようだ」とおだてることがありますが、これも我田引水であまり良い褒め方ではないと思っています。もちろん良い意図は理解していますし、一々突っかかったりはしませんが。
 それ以前に、道徳的側面から信仰の話をすること自体が、個人的には好きではありません。
 イスラームには道徳的側面が多いにあるし、どんな宗教にもそういう要素はありますが、別段宗教がなくても人は何らかの道徳律に従って生きることはあるし、両者が深く結びついているにせよ、基本的に信仰と道徳は別の問題です。信仰があっても道徳の今ひとつな人はいるし、道徳的でも信仰を持たない人もいます。
 そして道徳的側面というのは、人の価値判断に関わるもので、多くの場合その人の人間的な核に触れるものですから、そういう大事なものを勝手に取り上げて「これぞイスラーム」というのは、芸能人を候補者に担ぎ上げる政党のようで、あまり品が良くないでしょう。
 では何が「その人の中の小さなムスリム(またはムスリマ)なのか」というのは、人によるものですし、そのムスリムを見つけるには、その人をよく知らないといけないし、また自分の中に呼応する「わたしのイスラーム」がないといけません。だからどんな関係でもこういう語らいができるかといったら、全然そんなことはないでしょう。
 ですから、これは個人的なお話にすぎないのですが、わたしにとって何が「小さなムスリム」として発見されるかと言えば、ものすごい極論ですが、神様を信じているということです。もう一つ、いくらか重要度が下がりますが、「善く生きたい」と思っている、ということがあります。
 
 「いやいや、神様なんて信じてないよ」と言うかもしれません。むしろ、そういう人にこそわたしは惹かれます。というのも、わたしが見つけたいのは、「気がついたら信じていた」という信仰だからです。
 「神様信じています」というのにも色々あって、それはまぁわたしも信じているわけですし(笑)、十把一絡げにはできないのですが、現代日本という括りの中で言うなら、そこで信じられている神様というのは、むしろ信じていないよりイスラームから遠いことが多いです。そういう人に語りかけるのは難しいし、また無理に話す必要もないかもしれない。というより、わたし個人にとって、そういう「信じ方」が遠いので、わたしにとっては話しにくいのです(他の人は違うのかもしれない)。
 わたしの中の「神様を信じる」というのは、「全然信じていない」態度をどんどん掘り下げて行ったら、何だか分からないけれどクルッと裏返っていつの間にか信じている心が出てきちゃった、というような「信じる」です。零度の信仰というか、「え、いや、コレ信じてるの? わたし今神様信じてる? え?」という、驚きがある「信仰」です。
 これがわたしにとってのイスラームの出発点だったので、最初は「信じてない」と言ってくれる人の方が、むしろ共感するのです。現代日本の世俗的環境の中で宗教と無縁に育って、突然「神様信じています!」という人は、単にスピリチュアルなものにヤラれているだけだったりするので、かえって始末に終えません。まぁ、止めませんが・・・。
 
 「わたしにとって」を外して「イスラーム」として語る資格はわたしにはないのですが、僭越であることを承知で敢えて図々しいことを言えば、本当のイスラームというのは、ものすごく「信じない」ことから始まっているんじゃないか、とわたしは思っています。لا إله إلا اللهラーイラーハイッラッラー、シャハーダ=信仰告白で唱える文句の一つで、ムスリムは年中口にしている)というのは、「神はいない。ただしアッラーは除いて」ということですから、最初は「神なし」です1。「世の中そんな不思議なものはありませんよ、石なんか拝んでお金持ちになったり恋が実るなら苦労しませんよ」「普通に生きろバカ」というのが第一なのではないでしょうか。
 その上で、「ただしアッラーは除く」が来る。アッラーというのは、もちろん唯一の神なのですが、神様である以前に、「残りのもの」です。
 「神はいない、ただし何か残りがある」。「神はいない」というだけでは、語り尽せない残余があり、それをアッラーと呼びます、ということでしょう。
 じゃぁそれは何やねん、アッラーは神様とちゃうんかい、という問いが、本当はあってしかるべきです。「それは世界の内部に存在するのではなく、世界があるという事実そのものである」と言いたくなるかもしれない。理神論的ですね。それもわかります。それはかなり良い線を行っているのですが、それだけなら別に神様の話として持ち出す必要はない。どうやらやっぱり神様らしい。何やねん。それ何やねん。
 その答えというのは、簡単に出ないと思うのですよ。「いやいや、そんなことクルアーンにアホほど書いてあるから」と仰るムスリムが沢山いらっしゃるでしょうし、お怒りになる方がいても仕方ないですが、それでもわたしは、そこに問いが残ると思っている。そして、問いを問い続けることが、そのままアッラーと関わる道に繋がっていくと信じています。
 宗教というと、いきなり最終解決みたいな答えがドーンと出ていて、「もう全部決まってます」みたいなイメージがあります。確かにそういう側面もある。でも、ただ答えが書いてあるだけなら、それは狂信であって信仰ではないですよ。少なくとも、それが良い信仰だとは、わたしは思いません。
 答えではなく、問い。答えになりそうなものは聖句の中にもあるし、また宗教である以上信仰実践があるわけですが、それだって「自分にとっての」最終回答ではない。いつだって問うことはできるし、問わなければならない。ただ、入り口の前で止まって不躾に質問を投げるのではなく、とりあえず実践しながら問うていく、という態度が大事です。なぜなら、その問いは最終的にはアッラーにしか答えられないもので、しかもアッラーは滅多に人間に話しかけてくれませんから、自分で頑張って問いながら生きていくしかないからです。ヒゲの長い立派な先生をつかまえて質問しても、多分一番大事な答えはかえってきません。その人はヒゲは長いけどただの人間で、アッラーではありませんから。
 余談ですが、質問というのは基本的に無礼なものです。これについてはジジェクが良いことを書いていますが、質問とは破廉恥なものであって、軽々に投げつけるものではありません。まして、「本当に大事な問い」の答えは、ヒゲの先生も実のところ知らないのですから、先生のプライドを重んじ、軽い質問の仕方をしてはいけません。
 
 大分脱線しましたが、「神様なんて信じていない」という人の中に時々見つける小さなムスリムというのは、「しかし、残りがある」と言っている人です。全部全部否定して、でも何か、残りがある。そういう「割り切れなさ」そのものです。
 割って割って、余ったのがアッラーです。無理数です。余りを見つけるには、割らないといけませんから、割ってない人というのは、むしろアッラーから遠い。「信じていない」という人は、割って割って、合理で考えようとする。だから、そこに余りがある。割っているからこそ残りがある。その残りが、心のどっかに引っかかっていたら、それはもう、半分信じているようなものなのです。なぜなら、彼または彼女は、そこで割り切れずに残ったものを、問うているのですから。
 人間は、びっくりするくらい神様を信じているものなのです。
 信じていないつもりでも、うっかり信じてしまっているのです。
 むしろ「うっかり」の方が良いくらいです。簡単に石ころなんか信じるようでは、まだまだ割り方が足りない。大山倍達くらいの勢いで、石なんかガンガン割って、突き進まないといけない。「どうだ、ざまあみろ、神様なんかどこにもいなかった」と言っている人がいたら、ある意味その人はイスラームの入り口に立っているのではないか、と思います。少なくとも、わたしにとってのイスラームの出発点には、とても近い。もうほとんど、アッラーを信じています。
 そういう「うっかり信じてしまっている」のが、小さなムスリムです。
 そういう人になら、話しかけられる。別に「ダウワするぞ!」って言うんじゃありませんよ。そんなことは一旦脇に置いて、「その残りって何やろね、何かメッチャ気になるね」と、アリの巣を眺める小学生のように話したいのです。
 
 もう一つ「善く生きたいと思っている」と言うのは、もうちょっと先の話で、「びっくりするほど信じちゃっている」問題よりは重要度が一段下がるのですが、簡単に言ってしまえば、人間は価値判断というものから自由になれない、ということです。
 そして、屁理屈でも何でも、何らかの「正しさ」に依っていなければ、人は人でありえない。人間は、自分が悪だと思いすぎると、だんだんションボリして最後には死んでしまいます。医学的エヴィデンスはゼロですが、敢えて言い切ります。だから、斜に構えて「オイラ所詮カタギじゃねーからよー」とか言いつつ、小さな小さな善を心のどこかで抱えて、必死で守っているのです。
 シャーリーズ・セロン主演の『モンスター』という映画があります。レズビアンの売春婦が、パートナーと生きるために、客にとった男を次々と殺していってしまう話です。この女は何せ連続殺人鬼ですから、普通に考えて「良い人」ではありません。でも、映画の終盤の方で、彼女の行いがパートナーにもバレて、泣きじゃくりながらこんな風に言う場面があります。「わたしは・・わたしは・・良い人間なんだ・・」。わたしはこの場面に強く胸を打たれました。
 こう言っている時、彼女は自分が大罪を犯してしまったことを分かっています。それが「良い」ことではない、ということを知っているのです。だから言うのです。「(それでも)わたしは良い人間なんだ」。どんな悪に見えることを行っても、人はどうにかしてそれを正当化しようとします。正しくないというのは、とてもしんどいことなのです。
 だから、善く生きるのは、楽をすることです。
 もちろん、単純にはいきません。世の中、丸裸で善なるものはありません。「君は悪から善を作るべきだ、それ以外に方法はないのだから」。幼稚園児ならいざ知らず、一定の年齢になれば、世の中綺麗事だけでは渡っていけないことは知っています。だからこそ、「善く生きる」ために工夫がいるのです。善く生きるのは楽なのですが、楽をするのも簡単じゃない。
 多くの人間は、楽をしたいのに、サッパリその方法が見つけられず、どんどんしんどい道に嵌り込んでしまいます。でも、「善く生きたい」という気持ちは、どこかに必ず残っているものだと、わたしは信じています。
 「そこでイスラームですよ」というのではありません。イスラームに入ったからといって、途端に善行メソッドが開示されて、世の中薔薇色ハッピーに生きたりはできないでしょう。別に悟りも開けません(開けるんですかね? わたしは開けていません)。ラッキーカラーとかもないです。
 ただ、「善く生きたい」がこじれてしまう前に、難しいなりにボチボチやっていきましょうよ、という道は提供できるのではないでしょうか。正確には「善く生きたいと思っても許されるんだ」という許可はできるはずです。
 何だか逆説的ですが、「善く生きる」ことは、世の中ではなかなかの頻度で「妥当ではない」生き方とされています。正面切って「それは悪」と言われることはあまりありませんが、「アホやな、要領かまさなアカンやん」という見えざるツッコミを受けることが非常に多いです。そんなことが続くから、「善く生きるのはかえって迷惑かけることなんだ」とこじれてしまうのです。
 確かに要領は悪いかもしれないし、世の中ではあまり評価されないかもしれませんが、こじれてヒネてしまう必要もありません。世の中は残酷ですから、こじれてヒネて通り魔殺人とかまで行ってしまうと、今度は普通の悪として裁かれてしまいますから、ヒネてもちっとも割に合いません。善く生きること、それは許可はされているんですよ、難しいけどね、くらいのことは、言ってあげられるのではないかと思います。
 
 こういう発想というのが、イスラームの王道にとってどう位置づけられるのか、わたしには語る資格はありません。ムスリムが多数派の国のムスリムは、余りこういうことを考えないでしょう。
 加えて、こんな偉そうに書いたことを、わたしが実践できているわけでもありません。人間は怖いし、世俗的な欲望に押しつぶされそうだし、色々いっぱいいっぱいです。
 でも気になるものは気になるし、誰かの中の小っさなムスリムを発見するというのは、自分の中の小っさなムスリマを見つけるということでもあって、そういうハッとする瞬間だけは、まるで自分がいなくなったかのようにホッとします。
 「わたしのイスラーム」を問うことを通じて、人と語る。というより、人の生に耳を傾けることを通じて、「わたしのイスラーム」を問う、そういうやり方しかわたしにはできないので、細々こんな風に生きていきたいです。

  1. このことは中田考先生をはじめ少なからぬ方が指摘されていることで、別にパクったつもりはないです(笑)。 []