『原理主義の終焉か―ポスト・イスラーム主義論』私市正年

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4634474719 原理主義の終焉か―ポスト・イスラーム主義論 (イスラームを知る)
私市 正年
山川出版社 2012-05

 「アラブの春」を受けた本ですが、これをイスラーム主義の潮流の中で位置づけようとするもので、アラブ民族主義の後退と共に勃興したイスラーム主義の流れが、どのように変遷し、その後のアラブの大衆運動とどのように関係してきたかを解きほぐすものです。前半はイスラーム主義運動の歴史が概観され、後半では「ポスト・イスラーム主義」について考察されます。

 「ポスト・イスラーム主義」とは、イスラーム主義がアピール、活力、象徴性などを枯渇してしまった、という一つの社会状況を反映する用語である。それは、イスラームが社会的・政治的・経済的諸問題のすべてに回答を与える、というイスラーム主義の考えを否定している。しかし、ポスト・イスラーム主義は、反イスラーム的な意味ではなく、むしろ宗教を政治の相場くから解放(再世俗化)することで、宗教としてのイスラームを救済しようとする潮流である。その意味ではポスト・イスラーム主義は、明らかに宗教の政治的役割が制限されたことを意味している。また、ポスト・イスラーム主義は、イスラームと、個人の自由や個人の選択との連合の思想である。

 一九九〇年代にユートピアとしての政治的イスラーム(イスラーム主義)が失敗したあと、イスラーム政治運動は二つのあい反する方向を志向するようになった。
 一部の行動主義者たちはイスラームがグローバリゼーションによってマージナル化しているという強迫観念をいだき、「想像のウンマ」の構築によってそこから脱しようとしている。彼らは単純な善悪二元論を主張し、千年王国的自爆テロリズムに走っている。

 この第一の流れの中で注目すべきなのは、欧米諸国での移民二世・三世の若者たちです。当然ながら、彼らの大半はホスト国の慣習に従い形でのムスリム共同体を志向するリベラル・保守派ですが、一部は脱領域的なムスリム共同体を志向し、そのうち少数は、親世代の出身国言語文化からも切断され、ホスト国の文化も拒絶し、伝統的なイスラーム教育や常識の洗礼を受けることもなく、トランス・ナショナルなネオ・ファンダメンタリズムへとアイデンティファイしていきます。

 もう一つの方向は、イスラーム的ナショナリズムの運動へとイデオロギーの転換をしたナショナリズムとイスラーム主義の融合、ないしは両者の境の消滅によって、世俗主義的ナショナリストとイスラーム主義者が接近することになった。こうした新しい価値観を身につけたムスリムにとって、シャリーアは宗教的規範ではなく、文化的生活規範であり、したがって宗教的多元主義が可能になる。政治的疎外感を感じている階層(とくに中間層)の人びとを政治の舞台へと導き、また情報革命によって外の世界とつながった青年たちに変革の機会を与えるかもしれない。

 要するに、一九九〇年代後半のイスラーム主義運動は、もはやシャリーアにもとづくイスラーム国家樹立を目標として掲げず、イスラーム主義よりもナショナリズムの性格をもつにいたったのである。(・・・)
 イスラーム主義のナショナリズム化は二つの影響をもたらした。第一は、ムスリム諸国の国内レベルでイスラーム運動が安定した支持者を確保したことである。第二は、イスラーム運動における国際的連帯の衰退である。宗教としてのイスラームそれ自体が政治的・戦略的概念ではなく、民族の利害や国家の利益という政治的要素が、イスラームを政治的・戦略的要素にしているに過ぎないので、イスラーム主義運動のナショナリズム化は当然の帰結ともいえる。

 その結果、政治の(完全なる)イスラーム化は失敗し、政治領域からイスラーム(的なるもの)は後退するのですが、一方で社会は再イスラーム化されます。実際、本書でも指摘されている通り、アラブ諸国の一般社会ではより「イスラーム色」が濃くなっている現象が見受けられます。

ポスト・イスラーム主義下でのイスラーム化は宗教の衰退を意味するのではなく、宗教的実践がおこなわれる空間が世俗化のかたちをとることを意味している。

 日本語の文脈では「世俗」と「宗教」は相反するものとして捉えられますが、宗教が政治領域から社会領域へと移行することにより、「世俗が宗教化」する現象が見られる、ということです。

 この「イスラーム主義のナショナリズム化」という指摘は重要です。アラブ革命以後、いくつかのアラブ諸国で「イスラーム主義政党」が支持を伸ばし、これを警戒する欧米系の言説も見られますが、これらは実のところ、イスラーム主義の仮面を被ったナショナリズム政党の色彩が濃いです。日本の報道では、エジプトのムスリム同胞団を「原理主義」と形容する場面が多々見られますが、彼らは良くも悪くも「原理主義」という日本語から連想されるような集団ではありません。本来的には、イスラーム自体は領域国民国家概念と相反するところがある筈ですから、ナショナリズム的性向を強くした集団が「原理主義」的(原理に忠実)である訳がありません(もちろん歴史的にそうしたバックグラウンドがあること自体は間違っていませんが)。また、政治制度的に現状に比べ極端に「イスラーム的」体制を目指すような政治も行わないでしょう。
 個人的には、こうした「イスラーム主義」には疑問も感じるのですが、エジプトなどの現状を見る限りでは、「イスラーム的ナショナリズム」が大衆の支持を受けるはよく理解できます。原理としての是非はともかくとして、大衆の支持を得られない政治では何時まで経っても不安定な状況は解消されませんから、現状としてはこの辺が落とし所のようにも思います。

 本書ではまた、「宗教的権威の大衆化」という現象も指摘されています。アズハルなどの伝統的・公的機関の教育・影響を受けていないイスラーム活動家・説教師などが現れ、衛星放送やインターネットによって影響力を強めていることです。その一部は所謂過激主義的な思想の持ち主ですが、大勢としては寧ろ穏健な「俗人聖職者」的活動を行なっている人びとです。

その代表がアムル・ハーリド(一九六七~)である。彼は欧米系企業のビジネスマンであったが、一九九〇年頃から民間説教師としての活動を始めた。誰もが分かる言葉で具体的なエピソードをまじえながら、インターネットや衛星放送を使ってイスラームについて語った。

 本書ではアムル・ハーリドの他にムイッズ・マスウードやサウサン・ムハンマドの名前が挙げられていますが、ムスタファー・ホスニーなどもこの系譜に属するものです。特にムイッズ・マスウードやムスタファー・ホスニーはまだ三十代半ばでアムル・ハーリドよりも下の世代に属し、ムイッズに至ってはカイロ・アメリカン大学の出身という異色ぶりです。
 個人的には、彼らの言説すべてに是というつもりはありませんが、確かにキャッチーで分かりやすいことは間違いありません。「宗教者」の言説に時に辟易している者としては、玉石混交ながらも色々な人が出てくるのは興味深く見守っています。اختلاف الأئمة رحمة(イマームの違いは慈悲、マズハブなどにより解釈が分かれていることは、自らの状況にあった解釈を選ぶ余地があるということで、恵みである、という意味)とも言いますし、多様な言説に気軽に触れられる事自体は前向きに捉えたいです。

 こうした若手説教師の現ラマダーンでの動画をいくつか貼っておきます。

 アムル・ハーリドの今年のお題はウマル・ブン・ハッターブ様。この人はいかにも「エジプトのオッサン」的な暑苦しい喋り方をするので、個人的にはちょっと疲れるのですが、歴史を分かりやすく説明してくれるのは面白いです。

 ムイッズ・マスウード。情報革命により「非イスラーム世界」の言説に多く触れるようになった現状で、信仰をどのように捉えるか、というテーマを語っています。欧米人の「無神論者」インタビューがちょっとわざとらしすぎてウザいですが、キャッチーな番組です。それにしても彼はイケメンですね。
 ちなみに、登場しているエジプト人は、中流より上の割と教養のある人達です。ザマーレクのサイヤ・ッサーウィでロケをしてますが、ここは「文化的」大学生などの溜まり場として有名で、わたしも好きです。

 ムスタファー・ホスニー。この世の喜びや楽しみは、もちろん主に与えられたものですが、その中には許されたものと、人を惑わせるものがあります。こうした現世的なものとどう向き合うか、というテーマ。普通のエジプト人にとっては取っ付き易い内容です。

 ちなみに、外国人にとっては、彼らの話は非常に聞き取りやすいです。上品なアーミーヤで喋っていて、たまにフスハーが入ります。「非常に大衆的なアーミーヤ」も、「非常に格式張ったフスハー」も外国人には難しいものですが、一番分かりやすい喋り方をしてくれているので、アムル・ハーリドなどはかなり早口なのですが、大変分かりやすいです。

追記:
 ムイッズ・マスウードの番組を何話か見てみたのですが、個人的に結構気に入りました。この人の立ち位置は面白いですね。第二回にここで翻訳を掲載しているアフマド・アル=イシーリー氏が登場しています(髪がちょっと伸びてる)。ここからも分かるように、エジプトで言うところの「リベラル」からの視点が重要な役割を果たしています。
 この「リベラル」というのは、エジプトでは「世俗的」の代替語的なところがあるのですが(「世俗的」はほぼ罵倒語なので)、「世俗的」と言っても反宗教的という意味ではなく、政教分離的であったり、伝統に盲従するのではなく自分で考えることを重視していたり、それぞれのやり方で信仰を捉えようとしている人たちです。彼らは古典的・伝統的な方法に異を唱えることはありますが、信仰そのものを否定している訳ではありません。むしろ、近代的教育を受けた者なら当然問うであろう(問うべきである)問いに対し素直である印象を受けます。
 わたし個人としては、彼らの最終的な見解については是々非々の意見があるものの、「近代化」された現代日本という環境で育ち教育を受けた人間として、彼らの思想には共感する面が多いにあります。ただし、彼らの発言は常にエジプトという極めて「宗教的」で、必ずしも大衆の教育水準の高くない環境を前提としているものであることに、常に注意すべきです。この文脈を外して現代日本的文脈にそのまま持ってきても、意味のない言説、力のない言説となってしまうことがあります。

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