イシーリー氏に会う

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 こういうことをここに書いて良いものか迷うのですが、備忘を兼ねて印象の新鮮な間にメモしておきます。まぁ日本語であれば特に問題にもならないでしょう(いや、英語やアラビア語でも別に悪い内容は何もないのですが、どんなことにでもイチャモンをつけてくる人の率が違うので)。
 『名前のない本』の著者、アフマド・アル=イシーリー氏にお会いしてきました。
 ネット経由でコンタクトをとっていて、メアドも電話番号もホイホイ教えてくれたのでびっくりしたのですが(まぁ一応著書を翻訳したんだから電話番号くらい教えてくれても良いでしょうが)、電話してみたところ、住まいが割と近くで「調子が悪くて寝込んでるんだけど、いつでも来てくれ。今日? 明日?」と、異様にフランクで更に驚きました。エジプト人はすぐ人を家に招きますが、テレビに出ている有名人がこの勢いというのは、こっちがビビります。
 寝込んでるところを訪問して良いものか、ちょっと迷ったのですが、図々しいのでお邪魔させて頂きました。寝込んでいるというのは、風邪とかそういった類ではなく、ヘルニアみたいです。あんまり痛くて仕事にならず、どうせ暇だから遊びに来い、ということだったみたいです。実際、相当辛そうにしていました。
 ちなみに、早口で道を説明されても今ひとつ飲み込めず、なんとか「この建物らしい」ところまで来て尚確信が持てなかったのですが、そのへんにいたオッチャンに「イシーリーさんの家に行きたいんだけど、知らないよねぇ」とダメ元で聞いていたら、「あぁ、この建物の11階だ、一緒に撮った写真があるんだ」と携帯を見せ始めました。さすがエジプト人、有名人とはいえ底知れない近所付き合い力です。
 とりあえず、お住まいのデラックスさにビビりました。カイロではかなり高級な地域ですが、超オシャレなまるで映画のセットのような部屋で、最上階のバルコニーから夜景が眺められます。ものすごい場違いなところに来てしまった感じです。「こんな人が現実にいるんだなぁ」と遠い目になってしまいました。
 いつも思うのですが、あのホコリっぽいカイロの喧騒も、ちょっとマトモな車に乗せてもらったり、こうして上から見下ろしたりすると、途端に夢のような世界に変貌します。同じ一つの町なのに、見る場所によってエライ違いです。そういうことは日本でもどこでもあるでしょうが、カイロの場合、「下界」の低さが日本の比ではないので、落差が著しいのです。それが心苦しくもあり、一体何が本当なのか分からない気持ちになります。人は誰でも、目の前にして接している人々や世界にリアリティを求めるものですが、そのリアリティ自体が、一つの対象に対して激しく揺らぐと、すべての本当らしさが崩れていくような気持ちがするのです。
 奥さんと娘さんがいると思っていたのですが、氏一人だけで、既にイシャーの後の時間だし、二人きりというのは礼節としてちょっとよろしくないんじゃないかと思ったのですが、当然ながら何も問題なく、テレビ通り非常に垢抜けた礼儀正しい文化人でした(万が一変な気持ちがあったとしても、腰痛でそれどころじゃないでしょうが)。こういう階層だと、西洋的なノリにも慣れているので、一般のエジプト人ほどガチガチに固まっていません。
 思っていたより背が高くガッシリした体つきの方です。わたしも結構背が高い方ですが、それが「おおっ」と見上げるほどの身長です。頭が良くてイケメンで仕事ができて、映画のセットみたいな部屋で暮らしている、こんな王子様のような人が実在するのでしょうか。するみたいです。びっくりしました。
 
 会話の内容については、あまりにも多くのことがあって、到底簡単にまとめられません。そのうちうまい言葉が見つかったら少しずつ書いていきたいです。
 全体として、彼の考え方や宗教観は、現代日本で生まれ育った者としては極めて当たり前で、受け入れやすいものですが、少なからぬエジプト人には理解されなさそうで、聞いている方が「アンタそんなこと口にしちゃって大丈夫か」と心配になります。その考えを、例えばわたしがここで、日本語で書く分には何の問題もありませんが(もちろん、信仰自体に対する拒絶心から、別の理由で受け入れない人はたくさんいるでしょうが、別にその人たちはわたしを暗殺しに来たりはしないでしょう)、エジプトでエジプト人がアラビア語で話す、しかも公衆の面前やテレビで話す、というのは、全然意味が違います。この聡明さと発想力を持ちながら、どうしようもなく頑迷で同時に善良な人々とうまくやっていく、その器用さと柔軟さが一番抜きん出た点でしょう。
 例えば、このブログで度々ネタにしている、「最近のこれこれという科学的発見はクルアーンに記述されている、これぞイスラームが真正の科学的宗教の証」的言説。もちろんわたしとしては、こうした言説は受け入れがたく、品性を疑うレベルのものとすら考えています(その理由については何度も書いているので興味があれば探して下さい)。一方で、最近は「そういう考え方をした方が楽な人もいるんだから、それはそれで放っておいたらいいじゃない」という寛容さというか、単なる諦めも芽生えてきて、極力そう考えるようになっていたのですが、この件についての意見を問いかけたところ、まったく同じ答えが帰ってきたのに驚き、同時に安心しました。「それぞれの人にそれぞれの理解のレベルに応じてやり方がある、難しいことを言っても教育のない人には分からない、彼らの分かる話をしないとダメだ」と、テレビ人らしい柔軟さを示します。
 この問題は、日本でならそれほど大きなものではありませんが、教育レベルや生活環境に著しいバラつきのあるエジプトでは、本当にシビアです。問題は、その「分からない人」たちのほとんどが、別に悪い人でも「過激派」でも何でもないことです。彼らのほとんどは信仰心に篤い善良な人々であり、たとえ言っていることが受け入れがたかったとしても、到底全否定などできないし、またまともな議論を成り立たせることもできない相手だからです。
 ただ一方で「それぞれの人に合わせたやり方をすればいい」というのは、政治的で体の良い答えでもあるので、ひと通り考えを伺った上で、「しかし全くの個人的考えとして、『イスラームの科学的証明』的発想をどう思うか」と突っ込んでみたところ、一言「愚昧だ」と呟かれました。そう答えてしまことの重みと危険性、人々を傷つけたくない思いなどが、いろいろ重なりあった深みのある一言でした。
 繰り返しますが、氏に驚かさせるのは、この発想を持っていながら、同時に非常に多くのエジプト人とうまくやりとりし、人付き合い濃厚なエジプト社会を生き抜き、かつ正にその大衆を相手にするジャンルで成功を収めている、ということです。日本最高レベルのコミュ力者の十倍くらいの人付き合いセンスを持ち、かつ高い教育をちゃんと自分のものにしている人でなければ不可能な話です。彼は宗教の専門家でも何でもありませんが、むしろこういう人の方が、エジプトのイスラームをより良い方向に持っていける力を持っているようにも思います(これに大反対する人が大勢いることは承知の上で)。
 このように「専門家」ではないことを前提の上で、いくつか印象的だったことをメモしておけば、
 
「日常起こっている細々としたことに主の意志など関係ない。いちいちアッラーのせいにして話を終わりにするな。エジプト人はそんな調子だから、問題が起こっても冷静のその原因を分析し、改善することができないのだ。主は秩序を作られ、物事の起こる可能性を設定されるが、その中で人間が選択し起こった結果については、単にその人間の責任だ。なんでもかんでも『アッラーがお望みだったのだ』で済ますのは、単にそう言うのが簡単だからだ。責任感を持て」
「しかし人間の理解を越える不可解な出来事については、主の意志が働いていると思う。逆に言えば、理性で理解できるものは関係ないと思った方がいい」
(つまり、「神がすべてのものごとに常に介入している」という考え方と、「神は創造したっきり後は自然法則に任せっぱなし」という西洋的な発想の間です。ただ、最もポイントになるのは、「考えて分からないことに『限って』神の介入を感じよ」というところです。つまり、単に神が(人間の目から見て)「不条理」だというだけでなく、「不条理に見えるものに限って」アッラーの意志とせよ、という発想です。これは非常に興味深い!)
 
 また、このブログで何度かネタにした「アッラーは首の血管より近い」という正にそのアーヤを引用されたのには、運命的なものすら感じました。
「首の血管より近いというのは、アッラーは僕たちの中にもいる、ということだ。変な言い方だが、魂はアッラーの一部だ(これが誤解を招きかねない言い方であることは承知の上で言っている)。他人やその身体を尊重しない人間は、その相手の魂を通じてアッラーを傷つけているようなものだ」
 例の「イスラームの科学的証明」のバカバカしさについては、一番最初はストレートに答えず、こう回答されました。
「それがバカバカしいと感じるのは、君が魂でイスラームを知っているからだ。だがすべての人がそうではない。理屈を付けたい人もいる。ある種の人々には違うやり方がある」
 
 わたしとしては、悪いことや些細なことを含めて主の介入があり、「世界を絶対的に肯定的に見られる唯一の不可能な地点」としてアッラーを考える方が楽なところがあるのですが、「些細なことにいちいちアッラーが介入しているものか」と一蹴されたのは結構インパクトがありました。「でも例えば、何か悪いことが起こっても、それにも理由があり、何か良いことがあるから主が望まれたのだ、と考えることにも益はないか」と問うてみたところ、「父親が突然死んだ九歳の娘がいたとして、君はその子に『理由があるんだ、泣くな』とでも言うのか。そんなことを言ったら、その子はアッラーは悪いヤツだと思うだろう」と返されました。
 それでもしつこく食いさがると、「だから死後という考えがある。アッラーは公正でバランスを取られる。死後がなければどうやってバランスを取るのか。この世は明らかに不公正ではないか」「長い連鎖の末、悪い出来事が良い出来事につながる、というが、なぜアッラーはそんな周りくどいやり方をするのか。僕はそんな風には思わない」と答えられました。「悪いできごとは、どんな理由でもアッラーのせいにするな。それは信仰から心を遠ざけ、また分析や改善を怠らせ、人間の責任というものを考えなくさせる」。
 
 こうした発言は、少なからぬムスリムには「西洋的」に映り、わたしとしても内心「おいおい、そんなこと言っちゃって大丈夫なの」と心配になったのですが、氏は信仰そのものについては強い確信を持っており、「日本のことは知らないが、西洋では多くの人々が信仰を失い、虚無に囚われている。僕たちは生まれる前に、生まれるかどうか選択のチャンスを与えられたか。与えられないだろう。なぜか。それはアッラーが目的を持ってこの世に連れてきているからだ。目的があるのだ」と語ります(この時、『河童』の話を猛烈にしたかったのですが、話を遮ってしまうので我慢しました)。
 「では目的とは何か」と問われ、すべてのムスリムが答えるように「アッラーに仕えるため」という、クルアーンで何度も繰り返されるアーヤを述べると「そうだ、しかし具体的にどういう形で仕えるのかは人によって違う」と、この点は多くのムスリムと変わらない答え方をされました。印象的だったのは、度々「目的」という言葉を繰り返されていたことです。
 
 わたしはしばしば、命はアッラーのものであり、他人のものを勝手に処分するのはダメだろう、という発想をするのですが、その考えについて問うたところ、あまりお気に召さない様子でした。「君はそれでもいいかもしれない。僕もまぁ、良いとしよう。しかし信仰の薄い者や信仰のない者にそんなことを言っても『俺の命の所有権? ケッ』と言われるのがオチだ」といったことを答えられました。「所有権」という発想は気に食わないようです。
 むしろ「所有権」そのものは自分にあり、だからこそ自分で責任感をもって生きる、という発想をしているようでした。この辺はむしろ(ムスリムでも何でもない)普通の日本人や西洋人にとって「当たり前」な感覚なのではないでしょうか。
 
 他にも一杯あったのですが、まだ興奮さめやらずまとまりません。お土産を部屋に置き忘れていくし、氏の早口が聞き取れないことも多く、ダメダメな訪問でした。緊張しているせいもあって、単なる語学レベルでも自分の至らなさばかりが突き刺さりました。
 帰宅した時には日付が変わる直前くらいになっていのですが、タクシーを降りて歩く短い間の時間にもナンパしてくるアホがいるし、ガラの悪いのはたむろしているし、この国の「多様性」にはびっくりするというか、呆れるばかりです。狭い世界の中であまりにも違うことが多すぎる。
 ちなみに、カイロは現在もそれほど治安が悪いわけではなく、昼間に限って言えば革命前より少し雰囲気が良くなったように感じるのですが、夜については多くのエジプト人の言う通り多少治安が悪くなっている気がします。訪問される方、特に女性は、日が暮れたら不用意に出歩かない方が良いです。まぁ、殆どの場合はアホがギャーギャー言ってくるだけで、何ら手出しはされないのですが、気の弱い人だとそれだけでビビると思います。夜の人通りが革命前より少なくなっていて、外にいる人々のバカ率が相対的にあがっています。というか、ある程度以上夜遅くに外でブラブラしてるのはアホばっかりです(世界中どこでもそうでしょうが)。
 何度も言いますが、氏もわたしもイスラームの「専門家」では全然ありません。学問的な裏付けのある話ではないし、またそもそもやたらイスラームの話題になってしまったのは、わたしがネタを振ったせいです。本当はアーミーヤについて、言語そのものについての話もしたかったのですが、信仰ネタが長くなりすぎて時間がありませんでした。
 主の許しあらば、またお会いするチャンスがあると思うので、とりあえずその時はお土産忘れないようにします(笑)。
 
追記:
 氏の二冊目の本もぼちぼち翻訳中です。そのうちアップするのでしばしお待ち下さい。一冊目より込み入った内容が話題になり、アラビア語の使い方もますます独特になって、外国人の読み手にとっては多少敷居があがりました。
 時々フスハーとアーミーヤというのはキッパリ別れるもののように誤解されていることがありますが、両者はそれなりに距離はあるものの、結構クロスオーバーしながら使われるもので、一つの文の中に両方の要素が入ることもままあります。特に文化人が人前で話す時などは、フスハーっぽいアーミーヤを使うことがよくあり、両者の間を行ったりきたりします。イシーリー氏の二冊目の本は、このクロスオーバーをそのまま書き言葉で表現しようとしていて、外国人としては目が回ってくることもあります。
 一冊目よりフスハー率があがり(20%から30%くらいフスハーだと思う)、頻繁にシフトしていて、そのニュアンスを伝えるのに、一般書籍としては多めにタシュキールが使われています。「フスハーであることを示すために最小限のタシュキールを入れる」という、新しいスタイルです(クルアーンなどにおけるタシュキールとは目的が違うので、外国人にとって優しくなっている訳では全然ない。正直、むしろ読みにくい。全部アーミーヤ読みする方が楽)。内容も記法も実験的で興味深いです。一般的な方法ではないので、エジプト人でも読み間違えることがありますが(言語レベルのシフトに気づかず、ちょっと行ってから違う道に入ってしまったのに気づいて戻る、ということが頻出する。つまりシフトの表現が不十分で改善の余地がある)、実際こういう話し方というのはされるものなので、読者を慣らしていけば国語革命的手法にもなるかもしれません。記法をもうちょっと工夫すれば、「これぞエジプトの言葉」と納得できるものです。
 といっても、その辺の言語的な面白みは、翻訳してしまうとほぼ消失してしまうのですが・・・。