グズグズと後回しにしていた「クルアーン動物物語」の字幕ですが、少し前にやっと三十話全部完了し、羊動画にアップしてあります。翻訳もいろいろ至らないところがある上、画質が非常に悪いものがあったり、最後の方は諸事情あってエンコーダのロゴが入ったままの動画になってしまったのですが、どうかご容赦下さい。そのうち余裕ができてかつ需要があり、主の許しにより画質の良い動画を堂々と使える環境ができれば、焼き直します。
この「クルアーン動物物語」、象の話がラストかと思っていたら、ムハンマド様صと蜘蛛のお話が最終回でした。
これはムスリムなら誰でも知っているエピソードで、マッカの迫害から逃れてマディーナへ移住する際、追手をまくためにムハンマド様とアブー=バクル様رが洞窟に隠れた時のお話です。洞窟の入口に蜘蛛が巣をはり、鳩が巣を作ったので、追手は「こんな洞窟に人がいるわけがない」と中を探さなかったのです。
この時、迫る追手に不安で仕方がなかったアブー=バクル様に、預言者様が「我らは二人ではない、三人目にアッラーがいらっしゃる、心配するな」という内容のことを言います。この話が、とても気に入っています。
ここからは極めて個人的な思考の迸りで、イスラーム的なお話では全然ないのですが、何が良いかと言えば、二人目でも四人目でもなく三人目ということです。
二人目というのは何でしょうか。
「わたし」とアッラーです。これは確かに基本的な形式の一つで、信仰というものは、突き詰めれば「わたし」とアッラーの一対一の二者関係と言えます。イスラーム界隈では、何かというと人の行いに首を突っ込んで、やれハラームだマクルーフだとやかましい人たちがいますが、そんなものは当人とアッラーの問題なのですから、他人がとやかく言うものではない、というのが、基本の一つとしてあるでしょう。
ですが、十分ではありません。
一対一の関係がどんどん増えて、一人ひとりが縦の線でアッラーとつながり、横は水平で平等、というのは、確かに基本形ではある筈ですが、社会というのは個人がただ集まったものではありません。また、一対一の関係というのは、〈他者〉と向き合っているように見えて、知らない間に小文字の他者、あるいは他我のようなものと合わせ鏡になっているだけの、ナルシシズム的関係になっていることがあります。
では一方で、四人目というのは何でしょうか。
四人目だとしたら、その前に三人います。これは社会であり、力動があり、ファリックな何かです。不安定で流動的な状態で、それに四人目が加わって一時的な安定状態、「結婚」のようなものになります。
そして実際、主は四人目としての働きも備えておられ、ダイナミックな「社会」に付け加わって安定を作り出し、「子」を生み出し再び次の安定状態へと遷移する契機ともなります。
ですから、二人目でも四人目でもそれぞれに正解ではあるのですが、三人目ということは、そこで初めて「社会」になる、安定状態ではなく不安定でダイナミックでファリックな状態を作り出す、その不可欠な要素としてある、ということです。
スピリチュアルで不可知論的な「近代社会」の(二人目としての)神でもなく、それなしでもやっていける社会に対して「文化」として付け加わる飾りのような(四人目としての)神でもなく、それがあって初めて動き出す不可欠の社会性、間主観性としての神。それが三人目としての神様です。
繰り返しますが、これらはすべて、それぞれの仕方で「正解」なのですが、とりわけこの肝心な場面で三人目として語られる、というところが胸にストンと落ちます。これはマッカからマディーナへと移住し、まさにイスラームが「社会」として出来上がっていく、その始まりのエピソードなのですから。
さらに連想を続ければ、付け加わる数と言えば、洞窟章をまっさきに思い出します。
これも「洞窟の民」として「イスラーム動物物語」の中に収められていますが、不義の王から逃れるために洞窟に逃れた善き若者たちが、一晩眠ると三百年経っている、という、浦島太郎的なお話です。
その中に、現代人が普通に読むと奇妙に見える件があります。
سَيَقُولُونَ ثَلَاثَةٌ رَّابِعُهُمْ كَلْبُهُمْ وَيَقُولُونَ خَمْسَةٌ سَادِسُهُمْ كَلْبُهُمْ رَجْمًا بِالْغَيْبِ وَيَقُولُونَ سَبْعَةٌ وَثَامِنُهُمْ كَلْبُهُمْ
(ある者は)言う。「(かれらは)3人で、4番目は犬です。」(外の者は)単なる推測で、「かれらは5人で、6番目は犬です。」と言う。(またある者は)言う。「かれらは7人で、8番目は犬です。」(18-22)
これは、皆が当てずっぽうなことを根拠なく言っているが、主はすべてご存知である、わかりもしないことでくだらない議論をするな、という流れの中でのアーヤなので、イスラーム的にはそう解釈して終わりにすれば良いかと思うのですが、現代日本に生まれ育った者として率直に言えば、突然「若者は三人で、四番目は彼らの犬だ」等々と語り始めるのはかなり唐突です。
アニメを見てもらえば分かる通り(もちろんこれはアニメとして多いに脚色の付けられたものなので、クルアーンのままではない)、確かに彼らと一緒に犬がいました。しかしなぜ犬の件がわざわざクローズアップされているのか、奇妙に映ります。その上、人数の議論の中で「六番目が犬」だの「八番目が犬」だの言うのは、意味深で不可解に思えます。
重ね重ねこれは全然「イスラーム的」なお話ではないのですが、ここで「付け加えられているもの」は、洞窟の二人のところに「付け加えられるもの」を連想させずにいられません。こんなことをもしアラビア語や英語で書いたら「アッラーを犬と比べるのか」と暗殺対象にされてもおかしくないのですが、正直に言えば、こんな迸りを止めることができません。
ただ、ここでは加わる前の数は3、5、7です。いずれも奇数で、最小限社会でありダイナミックな流動状態であり、いわば四人目の結婚数として、「もう一つ」が加わるのです。
そして実際、若者たちが三百年の眠りから目覚めると、不義の王は去り、人々は主を信じ、社会は「できあがって」います。初期イスラーム共同体のような、ファリックで流動的な精鋭集団から、良くも悪くも「身を固めた」平衡状態へと遷移する物語なのです。
危険なお話ついでに、さらに連想を続ければ、ここで思い出すのはタルコフスキーの『ストーカー』です。
隕石が墜落したらしい不思議な現象の起こる「ゾーン」という場所に、ストーカーと呼ばれる案内人が、作家と科学者を連れて向かう、という映画です。
シネフィルたちの間でどれほど注目されてるのか知りませんが、物語の本筋とは関係なく、三人についていく犬が画面に映っています。三人が向かうのは願いが叶うという部屋なのですが、部屋を目前にして誰も部屋に入らず、絶望のまま帰途に着く彼らに、およそ無関係に見える場所での「奇跡」が起こる、というお話なのですが、その入らない部屋のところまで、犬がトボトボと付いていっています(と記憶しているのですが、もしかして勘違いかもしれません)。
この風景から思い出すのは、もしかするとそもそも『ストーカー』の背景として参照されていたのかもしれませんが、確かムハーバーラタにある物語の一つで、神の住むと言われる山に向かう三人の王子のお話です。
初めは大勢のお供を引き連れているのですが、厳しい旅の途中で一人また一人と脱落し、とうとう三人の王子だけになります。その旅路に、いつの間にかみすぼらしい犬が付いてきます。
そしてついに山頂にたどり着くのですが、「よくここまで来た、しかし犬は神の国に入ることはできない、その犬は置いていけ」と声が聞こえます。まるでゾーンの部屋の前にたどり着いた『ストーカー』の三人のようです。三人の王子は考えた末、「犬とはいえ、苦しい旅路を共にしてきたものだ、置いていくくらいならわたしたちは神の国には入らない」と、断ります。すると、実はそのみすぼらしい犬が神の化身で、三人は神の国に迎え入れられるのです。
うろ覚えなので間違っている可能性も大ですが、おおよそこんな話だったはずです。驚くほど『ストーカー』に似ているし、また敬虔なムスリム諸兄には大変申し訳ないですが、洞窟の物語も連想しないでいられません。
いずれも向かう先は「良き世界」であり、三人というファリックな精鋭集団は、目標地点を目の前にして逡巡し、しかしその迷いゆえに四の世界に迎え入れられます。
そしてインドの神様に「立入禁止」と言われるのと同様に、イスラームでも犬は、気の毒なことにイメージが悪いです。その口には悪いものが含まれていて、犬のいる家には天使が寄り付かない、と言われます。そんな卑しまれる犬ですが、一方で乾きのあまり湿った土を食べるまでになった犬に、井戸の底に降りて靴で水をすくってきてやる男の善行を描いた、有名なハディースもあります。
一見すると卑しまれる者なのに、みずぼらしい外見の中に真価が隠されている「付加物」、それが犬です。そして加わった先は四、結婚数です。
二に加わって三となるための付加物は、輝ける熱狂的なものでなければなりません。なぜなら、そこでできあがる三こそが、力動の出発点であり、この共同体は、初期イスラーム共同体のように、右肩上がりでイケイケに突き進むモーレツ集団だからです。
しかし、世の中はずっとそんなイケイケを続けていられるわけではなく、どこかでさらに別の付加物が付け加わり、「身を固める」必要が出てきます。そこでの平衡があるからこそ、流動する電子としての一=子を産み落とすことができるのです。そこで新たに付け加わるのは、前の付加物とは異なり、一見すると「つまらない」ものです。安定は退屈です。「つまらない」ものに宿る尊さに気づいてこそ、四という結婚生活を全うできるのです。
以上、転がるように思考を迸らせましたが、重ね重ねこれは全く「イスラーム的」なお話ではありません。わたしの中で、こうした発想がイスラームと共に生きる上で大切な役割を果たしていることは否定できませんが、それは純粋に、与えられた性分の中で受け止めているだけの話でしょう。