起こったことは、常に最悪の中では最善である

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 日本の災害についての海外BBSのコメントを眺めていて、「神が彼らを救われますように」といった内容に対し「神が津波を起こしたのにその神に頼んでどうするんだ」というツッコミが入れられているのを目にしました。
 このツッコミは確かに一理あるのですが、それでもやはり、ただ主にのみ祈るより他にありません。
 「不幸中の幸いでしたね」的な表現として、エジプト方言ではقدر ولطف(アッダルワラタフ、(アッラーは)運命を定められ慈しまれる)とか、قضى أخف من قضى(アダーアハッフミンアダー、運命は運命より軽い)といった言い方があります。
 これらは「現状は悪いが、それでも悪い中では一番マシだった」といったニュアンスがあり、運命と主の意志の関係をよく表していると言えます。この感覚が少なからぬ日本人にとってしっくりこないのはよく知っていますが、それがストンと落ちる「地点」を探さないと、信仰について何も知ることはできないでしょう。
 そういう地点というのが、確かにあります。
 「すべての運命はアッラーがお決めになっている」「災いも幸いも主の意志によるもの」と言っても、それは、何だか分からない超自然的なパワーを持つ人がいて、シムシティだかポピュラスでもやるようにホイッと災厄を起こしたりしている、という意味ではないのです。
 正確に言えば、ことが起こった時点になって、わたしたちはそういう「圧倒的な力の主」をイメージしますが、このイメージだけでは、災いを引き起こす神様は酷い人だと思われても仕方ありません。起こってから振り返るしか人間には出来ませんから、これはイマジネールな領域に神を位置づけようとする営みの中では必ず出現する矛盾ですが、翻せば神はそうした領域(想像的なもの、いわゆる現実)にはいない、ということです。
 では、どの角度から見れば良いのか。
 強いて言えば、これから起こる災厄について、そしてその災厄の後に起こるすべてについて、既に決定してしまった、という位置です。神は完了しています。
 神様にとっては完了していますが、人間にとっては未完了です。未完了である限りにおいて、わたしたちは、わたしたちに自由があるかのような感覚を抱き、その感覚の限りにおいて、裁定(勘定)を受けます。つまり「自分が悪人なのはそのように神様が創ったからだろう」という言い訳は、誠に理不尽なことに通りません。そしてまた同時に、わたしたちには祈るチャンスがあります。祈ったところで、神様にとっては全部決定済みであるにも関わらず、です。
 ある災厄が、どこからどう取り上げても何一つ良い面がないように見えても、起こりうるすべての中では、ただそれより他に可能性のないほど「最善」のものです。その善性は、悪との対比によって善とされるのではなく、ただ一つであるという意味において、対自的な反省の入る余地のないものです。
 当然ながら、人間にはそんな場所に立つことはできません。酷い運命は、酷い運命にしか見えません。ですから、その酷さが、「疑う余地のない正しさ」として映る唯一の地点を「信じる」のです。
 その唯一性とは、丁度わたしが独我論的なわたしという、語った途端に相対化されてしまう地点からしか語れず、そのわたしが、個別性という形で、語る先から世界の唯一性に回収されていくのと、並行的です。
 ですから、災厄を起こされたのが主であるとしても、依然として主に対し、ただ主に対してのみ、祈るのです。翻せば、わたしたちと神様は、そういう関係にある、ということです。つまり、論理的な時間差です。
 何がどう「ですから」なのか、ピンと来ない人も多いでしょう。すいません。
 でも多分、必要な時に、どうして「ですから」なのか閃く時がやってくるでしょう、主がお望みであれば。これはびっくりするくらい簡単なことですが、力んで考えていると、何十年でも知らずに過ごせてしまうことです。
 先のことも分からないのですから、もっと思い出さないといけない。
 
関連:「倫理的未完了」