抑圧ではない選択だ、というのは既に負けている

シェアする

 イスラーム界隈で、ヒジャーブについての漫画がちょっと話題になっていました。
海外ネタつれずれ:イスラムの衣装は抑圧?個人の自由?
 非常に分かりやすく対外的に語るもので、こうした試みを批判しようという気はないのですが、冒頭で女性が口にしている「抑圧ではない、わたしの選択だ」という台詞がひっかかります。
 別段この漫画でだけ主張されている言葉ではなく、イスラーム界隈のあちこちで耳にする台詞ですし、この文言についても別段否定しようという気はありません。分かりやすく言えばそういうことになるのでしょうし、対外的にことを穏やかに済ますなら、十分な話でしょう。というより、本人だって、これくらいしか言葉にできないことの方が多いでしょうし、そういう人達にわざわざ余計な小賢しさを吹きこんで混乱させようという気もありません。
 ですが、「抑圧ではない、わたしの選択だ」という語らいは、一見「自由」を主張しているように見えて、抑圧ならざるものは「個人の選択」である、という二択と対立軸を提示してしまっている限りで、既に半歩負けています。この対立軸自体が「外」の理屈に過ぎませんから、撤退戦で銃を撃ち返しているようなもどかしさがあります。
 そもそも「個人」を持ち出してしまった時点で、ことはかなり怪しくなってしまうのですが、こちらも半歩譲って分かりやすい土台から始めるなら、ムスリマがヒジャーブを「選択」するのは、普通に服を選ぶような「選択」なのか、と問うことができます。こう問えば、普通のムスリマは「それは違う」と感じるでしょう。服やバッグを選ぶように、ヒジャーブを「選択」している訳ではありません。
 では、彼女たち(あるいはわたしたち)は何を「選択」しているのでしょうか。聖典の解釈でしょうか。確かに聖典には直接「ヒジャーブ」という単語は出てきませんから、「解釈を選択」という見方は、特に「イスラーム外」的な視点で見た場合には理があるように見えます。しかし、ムスリムなら誰でも分かっていることですが、解釈というのは個人の裁量において自由に選択して良いものではありませんし、何より選択している当人は、それを単なる「解釈」とは考えていないはずです。ムハッジャバ(ヒジャーブをしているムスリマ)にも、「ヒジャーブはファルド(義務)ではない、だがわたしは被る」と考えている人もいるでしょうが、多くはヒジャーブをファルドだと考えた上で、被っているはずです。だとすれば、それは(少なくとも本人にとって)「義務」な訳ですから、所謂「個人による自由選択」とは異なります。
 では、イスラームという宗教そのものを「選択」しているのでしょうか。まず、ボーンムスリムであれば、実際上「選択」の余地などありません。一定の年齢になってから「ムスリムとしての自分」を自覚し積極的に引き受ける、というプロセスは大いにあるでしょうが、「ムスリムであること」自体を選択したわけではありません。
 一方、まったくの無宗教、あるいは他の宗教から改宗した人は、イスラームを「選択」したのでしょうか。これもまた、対外的にはそういう風に映るし、そう説明すれば分かりやすいでしょう。本人もそう思っている場合があるかもしれません。
 しかし、改宗ムスリムが冷静に自分自身を見つめてみれば、ショーウィンドウに並んだ商品を選ぶようにして「イスラーム」を選択した訳ではない、ということは明白なはずです。「キリスト教かなー、イスラームかなー、今入れば50%オフだなー」とかいってイスラームを選んだ人はいないはずです。多くの場合、人生の「選びようのない」流れの中で、結果的にムスリムになったはずで、引き受けるという契機はあっても、それは「個人による自由選択」という(仮構的)概念に帰せられる種類のものではないでしょう。
 これについては、「なぜという問いに答えられないところから信仰が始まるのではないか」「選ばないことでは無宗教にはなれない」「小っさなムスリムに話しかける」辺りでも触れたので、是非こちらを参照して頂きたいですが、端的に言えば、信仰を持つということは、「自由な個人」が何かを選択するというより、神様の側が一方的に「選ぶ」ことです。わたしたちは主の前で絶対的に無力な訳ですから、イスラームを受け入れるということは、「選ぶ」というより「選ばれる」ことに近いはずです。つまるところ、改宗ムスリムであっても、本質的にはボーンムスリムと変わりがないのでなければいけません。
 ここまで来れば何となく感じて頂けるかと思いますが、ムスリムとして生きる、イスラーム「を」生きるということは、「個人の自由選択」などという安っぽいフレームに回収されるものではないし、「抑圧か選択か」などという軸で語ってしまっては、逆にイスラームそのものが覆い隠されてしまうのです。
 そもそも、別段イスラームに限らずとも、「個人の選択」だと思われているものの多くは、環境や教育や識閾下の所謂ミーム的に伝承されてきた知の帰結にすぎない訳ですが、ことがイスラーム=帰依となると、滑稽さがより際立ちます。唯一者へと帰依し、その僕たることを存在の理由として引き受けるなら、「個人の選択」などという概念は、胸を張って主張することでもないでしょう1
 極端な話、ヒジャーブをファルドと考えるのなら、何せファルドなのですから、選択もヘッタクレもないはずです。もちろん、こう言えば多くのムスリマが違和感を抱き反発されることは分かっています。わたし自身も人から言われたら気持よくはありません。本当はここから、言わば「ファルドであることを積極的に受け入れる」ことと「他人の解釈や態度にとやかく言わない、ましてタクフィール(背教者宣告)など義務違反以上の大罪」という、イスラームの「厳しさと緩さ」を考える上で非常に重要なお話が始まるのですが、キリがないのでやめておきます。
 重要なのは、「他人に強制されてヒジャーブを被っているのではない」としても、それは「個人の自由選択」などというケチなものではない、ということです。そして、自らの信仰と真摯に向きあうなら、選択とその主体という大前提自体が解体される空間、別のロジックの生きる空間を、多くのムスリムが既に知っているはずです。
 
 繰り返しますが、ある種の対外宣伝、あるいはまた、ムスリム自身が自らの中にある「西洋的」価値観と折り合いをつけていく、という範囲において、こうした語り方や活動を否定的に見るものでは全くありません。大いにやって下さったら良いと思っています。
 それでもなお、「抑圧ではない、個人の選択である」という軸は、撤退戦の一手だということはしつこく言っておきたいです。
 強いて言うなら、「抑圧ではない、アッラーの選択である」です。少なくともわたしはそう思っています。

  1. 当然これは自由意志と運命の問題につながりますが、話が長くなるのでここでは割愛します。「『フサイニー師「イスラーム神学50の教理」―タウヒード学入門』マフムード・アブ=ル=フダー アル=フサイニー 奥田敦」「倫理的未完了」などをご参照下さい []