ら抜きについて

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 いわゆる「ら抜き言葉」について、このエントリが盛り上がっていました。

「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ:生活の中の理性と非合理

 よく読むと割と正論なのですが、おそらく半ば意図的に挑発的に書かれているのでしょう。
 この問題については、様々な要素がゴチャ混ぜになっています。「ら抜き」是か非か以前に、件のエントリにあるような「ら抜きを注意する」という場面では、例え「ら抜き」がカジュアルすぎる表現だと認識していても、人からチクチク言われると鬱陶しい、という面はあるし、それを「感情的」と批判しても仕方ないのであって、他人に何かを注意する時は相手のプライドを重んじ言い方を選ぶべきだとは思います(実際にどういう言われ方をしたのかはこの記述だけではよくわからないし、エントリ主の言い方を責めたいわけではない)。
 こうした外野の問題を一回脇に置いたとしても、「ら抜きが正しい」というのと「ら抜きはアリだが、カジュアルな口語表現であって、公的な場では控えた方が良い」というのでは、スタンスに違いがあります。わたし個人は後者のような見方をしています。
 「言葉は変わっていくものだから」という意見には一片の真理が含まれていますが、真理の全てではありません。変わっていくのは事実としても、その変化をどう捉えるか、というのは価値判断の問題であって、「変わる、だから変わってもいい」とはなりません。そして価値判断の領域になれば、ホメオスタシス的な維持する力と流れに任せたい力が拮抗するのはどんな分野にも言えることです。どちらが正しいというほど単純ではありません。
 
 上述の通り、わたしは「ら抜きは現実としてあり、かつ自分が使う場合もあるが、口語表現であって、公的な場では控えた方が良い」という考えです。どちらが「正しい」か、と問われれば、ら抜きでない方が正しい、と答えますが、それは「正しい」というより「公的」だという意味でです。スーツとジーンズでどちらが「正しい」と論じても仕方ないでしょう。
 「ジーンズの方が働きやすいのだからジーンズが正しい」というのは近視眼的な見方で、「公的なもの」「キチンとしていると見なされる振る舞い」というのは、狭義の合理性を基準に決められているわけではありません。「なぜそうなのか」と言われたら「そうなんだからそうなんだ」というだけです。リンゴをappleではなくhogeと呼んでも構わなかったと思いますが、もうappleな以上、hogeと言っても普通の人はリンゴを持ってきてくれません。
 ですから、ジーンズが相応しい場面ではジーンズをはくかもしれないし、スーツが適当な場面では、スーツを着ておいた方が少なくとも「身のため」ではあります。
 
 ここで話が終われば良いのですが、そう簡単に行きません。
 まず、このような「公式の振る舞い」と「使い分け」の体制そのものが、物質的根拠から決められたものではない以上、変動していきます。ですから、「ら抜きがカジュアルと見なされることはわかった、だがそんなものは認めたくない、ら抜きを公式と認めよ」という立場もあり得るわけです。当然、これに対するアンチもあります。
 エントリを読んで感じたのは、「ら抜きを公式と認めよ」派に対し、「別にら抜きを否定しているんじゃない、ただ公的ではないと言っているだけだ」と反論するような、すれ違いがあるのではないか、ということでした。
 この段階になると、後は政治的というか、双方色々屁理屈こねてやり合う、ということになってしまうので、個人的には、「ら抜きは公式にはまだ早い」派に一票入れて黙っておく、くらいになりそうです。
 
 ただ、上にも書いた通り「言語は変わっていくものだから」というだけでは、「ら抜き」を公認する論拠にはなりません。「ら抜き」否定論者も、別に言語が千年不動のものと信じてそう主張しているのではありません。
 一つには、言語は確かに変化するものの、許容できる変化の速度には限界があり、明日になれば通訳が要るほど変わっているものは言語として用を為さない、という実際的問題があります。そして「許容できる変化の速度」には、各人や世代・年齢・文化的背景による差異がありますから、「言語は変わる」の一点だけで新しい表現を「公認」する根拠とはできません。
 第二に、より重要な点として、言語は確かに「生き物」ですが、同時に半分は死んでいます。言語とは死者の言葉の集合であり、言葉を話すということは、わたしたち自身が「棺桶に片足を突っ込む」ことです。そのような象徴的去勢を経ることなしに、わたしたちは言語経済に参画できないし、それ以前に、参画しているものとしてのわたしが「呼びかけ」に対し振り向いた(振り向いてしまった)以上、既に半分死んでいるのです。この言語は、単に「ゆっくり生きている」というのではなく、死が生のように振舞っているものであり、目的なく蠢く自動機械のようなものをイメージした方が正確です。ただし、この点は、大切ではあるものの、実際的問題の上ではあまり多くの人の理解を得ないでしょう。
 この問題は、最近触れた言文一致についての議論とつながります。軽々に「使われているのだからその言葉は正しい」というのは、言文の一致という有り得ない消失点を実際上のものとして先取りする錯誤です。そういう錯誤が、ある幻想の維持のために重要であることは認めますが、その幻想の内部にいるだけであれば、言語について何も知ることはできないでしょう。



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