『漢字と日本人』高島俊男

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4166601989漢字と日本人 (文春新書)
高島 俊男
文藝春秋 2001-10

 中国文学者の高島俊男氏による漢字論。軽妙な調子で日本語と漢字の「腐れ縁」を語った名著です。
 筆者の中核的メッセージは、「あとがき」にわずか一文でまとめられています。

わたしの考えは、まず第一に、漢字と日本語とはあまりにも性質がちがうためにどうしてもしっくりこないのであるが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやってゆくよりほかない、ということ、第二に、われわれのよって立つところは過去の秘本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけないのだということ、この二つである。

 一見すると「伝統礼賛」のようですが、まったく異なります。
 「漢字は日本の伝統、素晴らしい、守らないといけない!」といったナイーヴな論を時々見かけますが、高島氏の仰ることはこれとは違って、「基本的に漢字は漢語(いわゆる中国語)のためのもので、あらゆる点で漢語を表記するのに都合よく出来ている。音韻構造が非常に簡単で活用のある日本語では使いにくい。しかし漢字伝来時の日本には文字がなく、他に選択肢がなかった(アルファベットが先に来ていたらもっとマシだったろう)。もう少し日本文化が放っておいて貰えたら、もっと相応しい文字が発明されていただろう。この災厄のお陰で、酷く使いにくい書記体系が出来てしまったけれど、こうなってしまったものは仕方ない。せめて過去とのつながりを絶たないよう、真っ当に使っていこう」というものです。
 良くないものならすっかり入れ替えてしまえば良い、という考えもありますし、実際過去にはこれまたナイーヴにも実際にそういう試みが行われたことがあります。しかし漢字をなくしてしまうと、音韻体系が大きくことなる日本語に無理やり漢字を使ったせいで大量に発生した字音語の意味が分からなくなってしまいます。
 筆者が「深く共鳴する」という新村出博士の論が、以下のようにまとめて引用されています。

 漢字は、支那語を書きあらわすためにできた支那字なのであるから、なるべく使わないようにする。これが基本である。しかし漢字で書かねば意味の通じないことば――すなわち字音語――は漢字で書かねばならぬ。これも当然である。「こうえん」では意味をなさない。「公園」「公演」「後援」「講演」「高遠」等とかならず漢字で書かなければいけない。これをかながきしたり、あるいは「こう演」「後えん」などと半分かなにする(これを「まぜがき」と言う)のはバカげている――ただし、コーエンという音を持つ多くの語のうち、最もポピュラーな語である「公園」は「こうえん」と書くもよしとする。すなわち「こうえん」とかながきしてあればこれは「公園」のこととして、それ以外のコーエンは「公演」「後援」等と漢字で書くこととするようなやりかたはあり得るだろう。しかし漢字を制限して「講筵に列する」を「講えんに列する」と書くがごときはおろかなことである。
 したがって、漢字を制限してはならない。字を制限するのは事実上語を制限することになり、日本語をまずしいものにするから――。制限するのではなく、なるべう使わないようにすべきなのである。たとえば、「止める」というような書きかたはしないほうがよい。これでは「やめる」なのか「とめる」なのかわからない。やめるは「やめる」と、とめるは「とめる」と書くべきである。あるいは「その方がよい」では「そのほうがよい」のか「そのかたがよい」のかわからない。しかし「中止する」とか「方向」とかの語には「止」「方」の漢字がぜひとも必要なのであるから、これを制限してはならないのである。あるいは「気が付く」とか「友達」とかの書きかたをやめるべきなのである。ここに「付」の字をもちい「達」の字をもちいえることに何の意味もない。こうした和語に漢字をもちいる必要はないのである。しかし「交付する」とか「達成する」とかの字音語は漢字で書かねばならない。すなわち「あて字はなるべくさける」というのは、和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする、ということである。漢字はなるべく使わぬようにすべきであるが、それは、漢字を制限したり、字音語をかな書きしたりすることであってはならぬのである。

 上は字音語と和語の問題ですが、他に漢字の「假」を「仮」としてしまったことがいかにイケナイのか、といった問題が語られています。それが一々軽妙な調子で実に説得力のある語られ方をしており、さくさく読めてすっかり納得させられてしまいます。
 特に中国文学者である筆者が解き明かす「いかに漢字は漢語向けであり、日本語には向いていないか」は明晰判明で、初めて知ることも沢山ありました。

 ここから個人的に考えたことについて、三点メモしておきます。
 一つは、筆者自身も指摘されている通り、現代であればPCの変換機能のお陰で、字画が多いことは障害にはなりません。日本語の「国語改革」は、「経過措置」的な途中段階のまま頓挫して今に至る状態な訳ですが、この「改革」がもう少し後に行われてくれていれば、無意味な略字の濫造は防げたはずだろうと思います。
 変換機能のお陰で、わたし自身を含む多くの日本人が「漢字が書けな」くなっているのですが、皮肉にもそのお陰で、かえって過去とのつながりの保たれる「意味のある漢字」が保存できた可能性があったわけです。

 今ひとつは、「なんであれこうなってしまったものは仕方ない」ということです。
 筆者の視点では、漢字表記というものが日本語に入ってきてしまったことは歴史的な不幸なわけですが、これで千年以上やってきてしまったのは、もうどうしようもありません。今これをまるごとひっくり返しても、余計に混乱するだけです。世の中にはこういうことが沢山あって、今あるものの多くは別段「最適の選択」の結果ではなく、間に合わせやら大人の事情やらの成れの果てなわけですが、だからといってどうでもいい、ということにはなりません。変えるにしてもゆっくりやらなければ、改良することもできないでしょう。

 もう一つは、個人的に親しんでいるアラビア語の連想です。
 アラビア語は、文語と口語が激しく、ダイグロシアと呼ばれる状態にあります。読み書きや公式の場面で用いられる「フスハー」は、基本的には千年以上前のアラビア語がそのまま使われており(実際には語彙や構文傾向などが現代とは異なる)、これが「公式のアラビア語」としてアラブ世界全体で共通しています。日本で教えられるのもこの「アラビア語」です。
 しかし、例えばエジプトの日常生活でこの「アラビア語」が使われることはほぼありません。実際に人々が口語で用いているのは「アーミーヤ」と呼ばれる言語で、これと「フスハー」の距離・関係は、ちょうどフランス語とラテン語のようなものです。よくよく勉強すればアラビア語の歴史が続いているということは分かりますが、ちょっと「公式のアラビア語」をかじった外国人が聞いた程度では、同じ言語とは思えないくらい違います。そしてこの「アーミーヤ」は、方言ですから、国や地域によって大きく異なります。エジプト方言が分かればパレスチナ、シリアくらいまでは何となく言っていることが分かりますが、イラクくらいになるとほとんど分かりませんし、モロッコなどのマグリブ地方の言語となると、それが「アラビ語」であることすらよく分からないくらいです。
 これは現代日本やヨーロッパ的な見方からすると大変不便で、「なぜ口語である『エジプト語』などを公式の言語として整備しないのか」と思ってしまうのですが、逆に過去とのつながりやアラブ世界全体での共通化という意味では、大変便利な面もあります。
 日本人が千年前の日本語を読むには特別な訓練が必要ですし、普通の人は百年前の日本語ですら楽には読めないですが、アラブ人であれば、読み書きができればすなわち「古文」を読むことができます。実際には現代文と古文では色々違うところもあるのですが、多くのアラブ人は古典であるクルアーン等に親しんでいますし、日本人に比べると圧倒的に少ない労力で過去へとアクセスすることができます。
 というより、「国語」としてアラブ人が学ぶのは「フスハー」であって、少なくともエジプトには「アーミーヤの教育」というものはありません。そのため多くのエジプト人は、「アラビア語」といえば「フスハー」のことであり、「アーミーヤ」もまた、外国人にとっては「学ばなければ分からない言語」である、という認識が欠けています。一部のインテリや外国人向けアラビア語教師等として訓練を受けた人でなければ、「アーミーヤにも文法がある」とも思っていませんし、学ぶ価値があるとも考えていません。これはこれで問題ではあるのですが・・。
 もちろん一部のインテリ層の間には、アラビア語の「国語改革」を訴える人々もいるのですが、これは極少数です。奇しくも『漢字と日本人』の中で、宣長と白石について触れられている場面で、次のような下りがあります。

 われわれの言語は日本語である。漢字は異国の言語を書きあらわすためにできた異国の文字である。なぜそんなに漢字をあらがたがるのか。――そういう気概を、漢字を知らない一般民衆に期待するのは、金輪際不可能であった、とさきにのべた。
 漢字や漢文や漢籍をありがたがる必要はすこしもないのだ、という主張は、漢字や漢文や漢籍を非常によく知っている知識人からしか出てこないのである。
 明治以後、「漢字を多く知る者は漢字を尊重する。漢字を知らない一般民衆は、漢字の制限を、あるいは廃止をもとめる」という言う人がよくあった。しかしこれは観念論である。
 ちょうど「階級制度のもとで、有利な地位にあるものは現在の制度を維持しようとし、不当な目にあっているものは社会のしくみの改変をもとめる」というのが観念論であるのとおなじである。「世の中のしくみがまちがっている。変えなければいけない」と言い出すのは、上層階級の、純真な、聡明な青年たちである。あるいは、学歴社会を批判するのは学歴のある人たちであるのも同じである。
 日本人が、漢字、漢文、漢籍を無上にありがたがるのを、最も強く批判したのは本居宣長である。この人はしばしば、ほとんどかなばかりの文章を書いている。宣長はもとより当時(というのは江戸時代の中期から後期にかけて)の最高の知識人であり、そういう人にしてはじめて、そういう見識と気概を持ち得たのである。

 アラビア語の場合は事情が異なりますが、「アーミーヤこそが我らの民衆語であり、母語である。これを国語とすべきである」などという改革的な意見を言うのは極一握りの知識人だけ、というところは共通しています。圧倒的多数の人々は現状で何とかやっていて、それが悪い、不便な状態だとは思っていないのです。
 もちろん、外国人の目で客観的に見てみれば、アラビア語の現状には良いところもあれば悪いところもあります。ただ、こうした「つながりを重んじて多少の不便には甘んじる」やり方でも、それはそれで回っていく世界がある、ということを知るには良い契機となります。

 ただ、日本語の現状が中途半端でグダグダであるにせよ、それもまた「なってしまったものは仕方ない」ものです。戦後の改革が愚かなものであったにせよ、もうそれから長い年月が経って、わたし自身も含めて多くの人々がすっかりそれに馴染んでしまいました。
 なんというか、こういうグダグダした感じでとりあえずしのいでいくのが、生物っぽいというか、他にやり方なんてないんじゃないのかと思っています。