以前に、「アラビア語では主語が省略されることがよくある」と言って、「日本語みたいだね」という反応を受けて非常に苛々したことがある。
まず、説明するまでもないが、アラビア語(あるいは、ラテン語でもドイツ語でも、とにかく動詞の人称変化が厳密な言語)で主語が省略されるのは、動詞の形から主語が決定できるからであって、言わば「主語の情報が動詞に含まれている」からだ。日本語は、動詞をいくら見ても一人称か三人称かなど、決定できない。だから、両者の「主語の省略」はまったく意味が異なる。アラビア語やドイツ語では、省略されても主語がわかるが、日本語ではわからない。
問題は、果たして日本語では本当に「主語が省略されているのか」ということだ。
敢えて謎かけのような言い方をしたが、言いたいのは、しばしば指摘されるように、主語という概念自体が、日本語にとっては異質であり、あまり重要ではない、ということだ。
言うまでもなく、類推もできないのに「主語を省略」してしまう日本語が、情報伝達において劣った言語である、などということはない。省略も何も、主語という概念自体が希薄なのだ。バイクにワイパーがなくても、別に「省略」ではない。
よく知られているように、日本語は「動作の主体」よりも「主題・話題の中心」を重んじる言語だ。topic-prominent languageということだが、朝鮮語、中国語、インドネシア語等もこれに当たる。
たとえば「こんにゃくは太らない」と言った時、太ったり太らなかったりするのは、人間であってこんにゃくではない。こんにゃくを主語として翻訳したら、まったく意味が通らない。この時、こんにゃくは「話題の中心」であることが助詞「は」により示されるが、主語は省略云々という以前に、特に問題にもならない。
もちろん、動作の主体を明示することもできる。取調室の容疑者が「わたしがやりました」と言えば、主語は「わたし」だ。こうした場合、日本語では助詞「が」が使われる場合が多いが、そもそも動作の主体の明示ということの優先度が低いので、あまり厳密ではないのではないかと思う(日本語の専門家でも何でもないので、いまひとつ自信がない)。
逆に、英語やアラビア語でもtopicを強調する表現というのはあって、主に語順によって表される。倒置構文やらit thatの強調構文というのが、これに当たるだろう。
二つのフレームの優先度に違いはあっても、並存して問題があるわけではない。
だから「主語が曖昧」であることは、日本語においてちっとも問題ではないわけだが、「主題が曖昧」であることは問題だ。
そして、主題が「省略」されることも、十分あり得る。
アラビア語のような古い屈折言語が、動詞の人称変化や名詞の性・数・格変化により、省略があっても文の構造を明示しているように、言語には何か、それぞれの言語において優先度の高いポイント(主語や主題)と同時に、これらが失われないように支える「言語内的照応関係」がある。これが言語を内から支える梁となって、文が崩壊するのを防いでいるのだ。
日本語の場合、おそらく古くは敬語構造の厳密さが、こうした「梁」になっていた。屈折言語を学んでいると、性・数も人称変化もない日本語の単純さに唖然としてしまうことが多いが、一方で古文を読む時の敬語構造のややこしさはすさまじい1。最近、知り合いのアメリカ人が銀行に口座を作りに行って、その時の行員の説明が敬語が多すぎてさっぱり理解できなかった、とションボリしていたのだけれど、お客様を丁重に扱おうとすればするほど、返って苦しめてしまう、という皮肉な状況がある(笑)。
屈折言語の屈折的特徴が失われていくように、日本語の敬語も時代と共に簡略化されていっている。外国人にとっても子供にとっても、簡単になるのは結構なことだと思われるかもしれないが、言語を内的に支える梁の要素というのは、調子に乗って外しすぎると、言語そのものの本質を壊しかねない大切なものだ。
敬語は儒教的精神と密接に結びついており、その省略の是非については、道徳的判断が入り込まざるを得ない。だからこそ、ことの本質が余計に見えにくくなる。儒教的伝統を一切省みることがなかったとしても、依然として敬語は日本語において非常に重要な要素だ。敬語の簡略化が危険なのは、別段若者がお年寄りを大事にしなくなるからではなく、わたしたちに呼びかけ象徴経済の星座に位置づけた死者たちの群れを、軽んじてしまうことになるからだ。
外国語としての日本語―その教え方・学び方 (講談社現代新書) 佐々木 瑞枝 講談社 1994-04 |
- わたし個人が苦手なだけに、余計感じるのかもしれないが [↩]