アラビア語における「運命」について、面白い話を伺ったのでメモしておきます。
القضاء(アル・カダーゥ)とالقدر(アル・カダル)というのは、セットにしてよく使われる言葉で、辞書で引くとどちらも「運命」という意味があります。カダーゥの方は「裁定」みたいなニュアンスがあります。
ですが、両方「運命」といっても、意味が違うそうです。
例えば、交通事故にあったとします。同じ事故にあっても、大けがをする人もいれば、無傷で済む人もいます。
この時、「交通事故にあう」という運命のことを、カダーゥ、その結果をカダルという、とのことです。
イスラーム的な世界観では、よく運命が「(予め)書かれている」という表現をし、運命論的見方が決定的にも見えます。
だからといって、人間個々人の努力が無意味とされているわけではなく、カダーゥは変えられないが、カダルは変えられる「かもしれない」ものです。
こうした分節は、あらゆる運命論的哲学に付随するものでしょうし、イスラーム独特というわけではないと思いますが、辞書的には似た意味の言葉に、そういう背景があるのは知りませんでした。
「因果」の考え方と呼応するようで、とても興味深いです。
اللهم إني لا أسألك رد القضاء و لكني أسألك اللطف فيه
「主よ、運命に抗しはしません、ただそこに慈しみのあらんことを」
大分意訳ですが、ドゥアー(祈願)の文句の一つです。