うどん

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 たとえば、支那という言葉はchinaのことであって、本来的には別段悪意や価値判断を含むものではなく、一方で日本で中国と言えばそれは岡山とか広島とかあの辺りのことを指す、支那を支那と言って何が悪い、というのは一理あるが、同時にまた、歴史的事情などから当の中国人が支那の語を嫌がるのであれば、使わないで言い換えておけば少なくとも揉め事が減る。支那でも中国でもどっちでも良いならその方が楽である、というのは良し悪し以前にプラクティカルな判断として成り立つ。この後者の考え方、薄まりすぎてそれがリベラリズムと気づかれることすらなくなってきた普遍化したリベラリズムのようなものは、昨今ではある一定の層にとって当たり前のもので、わたし自身この感覚を当前視して育ってきたが、しかし、これもまた、当事者の主体性という、同様に当然視されすぎた考えに寄って立っている。人間主義、ヒューマニズムであって、ここには人間しかおらず、その人間は主体性を持ち、自ら判断するものとされる。言うまでもなく、今日的な意味での人間主義自体が特殊近代的であり、言語ナショナリズム的な意味で同定される「中国人」概念同様に、「人間」そのものが人造的な概念に過ぎない。つまり第三者の審級がない。法であれ神であれ、それらはヒトが作ったのだ、ヒトがたくさん集まったなにかが作り出したのだ、とする物語が近代的な人間主義だが、そもそもの話、人間概念は人造的でも人間は人間が作ったものではない。ヒトがたくさんあつまった時、それがヒトなのか、という問いも封じられている。種としての人類はもちろん、個人(なる近代的なもの)を作り出すのも、本当のところヒトではない。物質として、生物としての個人は繁殖により生み出されるのが、その存在を生むのは人間ではない。ここで存在を存在者からわかつ思考もまた特殊西洋的かもしれないが、一旦これを置くとして、ある個人なるものが人間として認識されるのは、単に生物学的営為によるのではなく、これに薄く重なり合うようにして入り込む別の枠組みによるのであって、むしろこちらの枠組みの方が、わたしたち自身の身体同然に当たり前で、それとして取り出すことも難しい。強いて言えば言語で、生物学的云々といった理屈も言語の内部で発見されたものだが、一方でこの言語という第三者も、網の目のように世界を覆いながら、正にザルの網目の如く、うどんは通さないでも水は通す。世界にもわたしたちにも、うどんもあれば水もある。うどんしか見ないのではイカン、その向こうの水にこそ主なり、というのがリベラリズムだとして、ここには一面の真理があるが、正に水の如く、個人の主体性など定まりなく、中国人は一人ならず、突き詰めればリベラリズム的な主体性など人類史的に極めて狭い範囲にしか成り立たない間主観的な構築物に過ぎない(そしてその「人類史」なる概念自体、「身内」「味方」「我が民」を徐々に拡張して染色体の本数にまで薄まった「人間」同様に、構築物に過ぎない)。むしろうどんあっての水であった、とも言える。水が主であったにせよ、わたしたちに捉えられるのは所詮はうどんだけなのだから、うどんを礎として、在るが把握しきれない、理解を越える、水なるものと関係しよう、というのがせいぜいのところだろう。その関係は果てしがないし、水だけが実在とかうどんがすべてとか、イメージで物事決着つけようという態度からは永遠に手が届かず、なおかつ人類のほとんどはそうして「政治的」に生きているのだから、これについてどうこう言ったところで始まらない。



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