諦念という手紙を出す相手は一人しかいない

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 共通のコンテクスト、なるものが暴力として働く。
 某所である作家に「好きな男性のタイプは?」と尋ねる人を見て殺意を覚えたけれど、この質問者は良い人で、当たり前だけれどなんの悪意もないことをわたしは知っている。むしろ、誰にでもわかる共通のコンテクストに落とし込んで、部族の儀式を共にし共感を演出しているつもりなのかもしれない。
 「なんだかんだで同じ人間」みたいな語らいも同様であって、枠をだんだん緩くしていけば最大公約数めいたものが表れると思っている。ここで「そうは言っても食わなきゃ始まらねえべ」などと発言してどっと笑いをとる。実際、うまくいくことも多々あるだろう。大体部族の儀式などこのようなもので、必要だから儀式をやっているのであり、止めることはできない。
 共通のコンテクストという想定が暴力的であったところで、これをやめさせることはできないし、すべきでもない。「枠の外にいる人達への想像力を」などと、マイノリティの代弁者気取りたちは(これもまた善意をもって!)語るが、単に一段大きな輪を作るだけで、輪を作っていることには変わりないし、小さな輪で固く結びついていた人々にとっては大きなお世話で、輪は大きくなると緩く役立たずになる。
 なにが錯誤かと言えば、最大公約数というモデルが既にイメージに捕らわれているのであって、無数の差異的コンテクストの中で重なり合う部分を探す、というものごとの見方がもう一つの枠の中に収まっている。なおかつ、これをやめろということもまたできない。大抵の人々はイメージでものを考えるし、それはとても役に立つ。
 どのコンテクストにも乗らない、ということはできない。コンテクストなど本当にあるのか?
 適当に調子をあわせて笑いながら机の下の指で十字を作るくらいが関の山だろう。
 見えないところで重ねた指は、なにせ見えないのだからあるのかないのかわからない。そういうものを想像できる人については、共通のコンテクストという暴力を前にしても、なにか神があるのだろう、と留保できる。想像なのだから本当は違うかもしれない。実際のところ、極めて多くの人々はそれが暴力であることにすら気づいてない。
 「罪なき一般市民」が一番罪深い。とはいえ、彼らを無差別に罰する法もない。そうやって透明な水で手を汚す(!)ことがこの部族の儀礼なのだから。
 誰だって「お前は悪くない」と言ってもらいたい。それはそうだろう。と、ここで今わたしも、共通のコンテクストを振りかざしている。
 抽象化の営み自体、悪を希釈して水と同じ濃さにする試みに過ぎない。物事を薄く一般的にわかりにくく語る人は、人と仲良くしたいのだ。
 時代錯誤で野卑なマチズモを叩くにしても、無法図な共感代理になだれ込むMeTooの如き烏合の衆ではどちらが了解に堕ちているのやらわからない。
 たぶん、物理の暴力しかないのだけれど、そう言っているこの言葉は物理の暴力などではないし、大体物理とはなにか。言葉の向こうに確かなものがある、というイメージが楽をし過ぎではないか。
 遠くなりすぎた友に手紙を出すのを諦めるのもまた通信だろう。誰に対して。諦念という手紙を出す相手は一人しかいない。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする