入るなら、その家の食事を食べないという法はないのだけれど

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 わたしは霊感などまったくないが、見えてしまう人はきっと大変だろう。なにかが見えないとしたら、それは見えないままにしておいた方が良い。
 外にいれば中からは見えない風景が見えるが、見えたから何だというものではある。見えない方がたぶん良い人生だろうし、恐れを知らないだけに時に無神経で傍若無人にも振る舞うが、能天気ゆえの優しさというのもある。
 「君も中に入りなよ!」と言ってくれるのは大抵、このお花畑の人たちなのだ。外にいる人間は外同士わかりあえるかというと、まあわかるかもしれないが、わかるだけに先に先に想像と予見が走り、手詰まり感にすくんでしまう。大人になるとものが見えて無鉄砲なことができなくなるが、それと似たフットワークの重さに絡め取られてしまう。それとは別に、単に「抜け駆けは許さない」的な足の引っ張りあいもあるだろう。
 騙されてしまう人は幸いで、人にも優しい。
 が、許しがたいところもある。見えないからこそ騙されたのだから、恨みつらみもあるだろう。なぜそんな簡単に騙される。わたしのついた嘘にも騙されるのか。
 患者が一番恐れるのは、医師が自分に騙されてしまうのではないか、ということだ。
 騙さなければ良いではないか、というわけにはいかず、何をどう言っても嘘になるということが見えてしまうから患者なのだ。
 そこをグッとこらえて、嘘と心中しなければまともな人間にはなれない。嘘を真にするしかない。
 今現在生きている以上、どれだけ外から来ようが、どこかでそうして嘘を真にしてきたのだ。問題は、真にもいろいろあって、この真とあの真では辻褄が合わない、ということがまま起こることだろう。長く生きているとだんだん辻褄が合わなくなる。
 大体人は、辻褄の合う範囲に閉じ込められる。
 それより広いところに出ようとすると、新しくて大きな嘘が必要になり、この嘘はまったく、吐き気がするほど通俗的で薄汚れた物語なのだけれど、「君も中に入りなよ!」という優しい人々は、このドブのような世界が最初からまるで気にならないのだ。
 まあ、入るなら、その家の(ドブのような)食事を食べないという法はないのだけれど。しかしね。どうなのだろうね。わからない。



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