なにかが連続しているというのはよくわからないことだ

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 なにかが連続しているというのはよくわからないことだ。わかるかもしれない。
 例えば若い頃、幼い頃の恥ずかしい思い出が蘇って七転八倒する、ということはよくあるだろうが、特に恥ずかしい思い出ではなくても、なにかわたしとは似ても似つかないものがわたしと連続してる、ということに内蔵が裏返るようなむず痒さを感じないだろうか。連続していること自体が恥ずかしくはないだろうか。
 よく意味のわからないことだ。
 時間的スパンが大きいから恥ずかしいのかというと、そうでもない。
 逆上がりを練習していて、一回目はできない、二回目もできない、数えきれないほど練習してある時できる。この感じが捻れている。
 歴史の年号を覚えようとして、その瞬間は世界の自明事のようにはっきりしているのに、少し経つと忘れてしまう。また覚える。何度も繰り返すと、身体の一部のように年号が出てくる。これも捻れている。
 捻れの向こうにある連続体の方が実体なのだ、というのが、世間一般で流通しているイメージなのだが、これは正にイマジネールなものであり、像の中で統合を得ている脆いものに他ならない。見ているわたしは、依然として言語に寸断されている。寸断されているが、イメージの逆照射によって統合を得た気分になっている。この気分が、時間的なズレによって崩されるのだろう。
 切断したら死ぬのではないかと思うけれど、死なないのだ。いや、いわゆるところの身体を沢山切断すれば死ぬだろう。これはこれで奇妙なことなのだが、少し問題がズレる。ただ、身体を何らかの形で傷つけることにより固定する、という営みは人類が昔からやっていることだ。入れ墨然り、ピアッシング然り。なぜ切断するのかと言えば、言語の側は切断されているからだ。統一体、連続体というものはイメージの中にしかない。現代的なコンテクストではイメージをリアルに取り違える。一方で言語をリアルに取り違える方法もある。どちらもリアルではないのだけれど。
 小中学生くらいの子が自分の葬式を想像するのはよくあることだろう。参列している友達を俯瞰で眺めている。もちろん、その時当の本人は棺の中で、上から眺めてなどいない。切断されても死なないのではないか、というラインがここにある。自殺を可能にする一つの補助線がここにある(あくまで補助線に過ぎないが)。切断されても死なないなどというのは馬鹿げた想像だと思うだろうが、しかし、わたしたちのイメージ共同体は、切断されても死にませんよ、イメージさえあれば持続しますよ、という物語によって成り立っている。年号がいつの間にか空で言えるようになってもあなたはあなたですよ、という声だ。この声は真理ではなく、ある種の処世術を神格化したものに過ぎないが、一部がカルト化して自分の葬式を本当に見ようとする。しかし実のところ、本当に見えるのかもしれない。それはやっていないのでわからない。
 翻せば、イメージ共同体の信仰に徹底して抗うこと、つまり、連続していることのわからなさに誠実であることは、無神論の抽象化された形態であり、同時にまた、到達不可能な唯一の神を考えることでもある。もちろん、実際の「宗教」の中では、不可知論として退けられるだろうが。
 入れ墨を習慣として行おうが、習慣として拒絶しようが、習俗によって言語とイメージの乖離を埋めている以上、どちらも同じなのだ。わからないことをわかったことにして、つつがなき共同体を維持する。というより、共同体があるということ自体が、乖離の穴埋めとパラレルなのだろう。連続性のわからなさはどこまでもわからないのだけれど、このわからなさには他者がいない。天の声以外にも声はあるのだ。それはまったく、天の声以上に奇跡的なことなのだが、これを当たり前のものとして受け取ってしまえば、最初から問題は起こらない。傷はできる前から埋められている。
 天の声以外の声を与件の如く受け入れている人とそうでない人がいる。
 そうでない人はなにか間違えたのだろうか。強いて言えば、声をかける側がなにか間違えたのだろう。お父さんやお母さんだ。ではなぜ彼らは間違えたのか。彼らに声をかけた者が間違えたのだろう。呪いというのはそういうものだ。しかし間違えもまた言語の一つである。いかに間違えようと、間違えようのないなにかが伝達はされている。実際、「間違った」声をかけられた者も、言語経済に組み込まれている。組み込まれていなければ乖離の問題自体がない。
 この世界には狼少女が散種されているが、狼もまた別の生き物に育てられたのであり、育てた以上、良い狼だった。
 良い狼を遣わされた主に感謝しよう(不可知の主ではあるが!)。



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