素晴らしい土地

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 大体どこの土地に行っても「ガラが悪い」と文句ばかり言うのでガラソムリエの異名というか蔑称を欲しいままにするのだけれど、別段ガラの悪さを責めているわけでもなく、ガラが良いならガラが良いでガラの良さを責める。本題というのは特にないのだけれど、本題に入る前に少し身も蓋もない真面目なことを言うと、上品とか下品とかいうことが問題なのではなく、重層性と密度が肝なのだ、とは考えている。重層性は基本的にあるほど良いが、密度はあまり密ではない方が好ましい。都心にもごちゃごちゃしたところとすっきりしたところがあるが、いずれも密で、なんだかよくわからない隙間的な空間がない。かといって田んぼの真ん中を延々と国道が続いているだけでも疎に過ぎる。ちょうど良い塩梅の密度というのがあるのだ。しかしそんなことはどうでもいい。
 神奈川県というのはわたしにとって馴染み深いはずの土地なのだけれど、海の近くは好きではない。二歳まで目の前が海という家で育ったにも関わらず、潮の匂いも浜に転々と打ち上げられたクラゲの死体も一方向に吹く強い風も台風の時に山一つ越えても響くごうごうという海鳴りも漁村の雰囲気もサーファーのノリもビーチリゾートの空気も日焼けした男も水着のお姉さんも全部嫌いだ。魚は美味しい。海の近くにはなにか開けた空気があって、直情径行ではないけれどパッと表に出てババッとやり取りしてそれで済む、という、ある種の気持ち良さがあるのだけれど、その田舎臭さがたまらなく不快だしだが良いところもある。一方で湘南には独特のイメージがあり、サーファー文化と暴走族とハイソな文化人とお大臣と土着の漁民末裔が階層的というよりは棲み分け的に重なっているのだけれどこれがまた気持ち悪い。海の近くは山が迫っていることが多くて農耕には適さない。なぜ山が迫っているのかというと、たぶん山ではないところは全部海になってしまったからで、武蔵野的なだだっ広さがない。それだけ自然豊かなのだけれどアップダウンが多くて歩くと疲れるし自転車に乗っても疲れる。しかしそういう気風というのはすべてわたし自身の血の中に含まれていて、もしかしてこれは同族嫌悪なのではないか、と考えることもある。近海もののシラスは格別である。
 九州というところがある。わたしは九州には一度しか行ったことがないが、九州出身の人々には他の多くの日本人と同様数多く接した経験があり、そこから察するに、関東近郊出身者の考える日本とは異なる土地ではないかと思う。近畿とも違う。彼らが話すのは同じ日本語で、方言と言ってもたかが知れている。などというのは大嘘で、関東や近畿の言葉には慣れ親しんでいても九州の言葉はどこか馴染みがなく、鹿児島などになるとまるで日本語とは思えない。それがどうかしたのか。ドイツ語を話しているわけでもない。しかし同じ日本語を話すからといって油断してはいけない。人に似た人ではない生き物のように、彼らは関東人のイメージする日本人とは似て非なるものである。だが薩摩長州のお陰で夷狄に屈せず日本独立を保った大恩のある土地であり、南の方には足を向けて寝られないが、どのみちそれは北枕だし、大体九州は東京から見ると南ではなく西南かほとんど西で、東京の南になど小笠原諸島くらいしかなく、小笠原諸島は東京都であって、そもそも小笠原諸島が本当に東京の南なのか地図を見ないと自信がない。
 九州と一口に言ったところでいろいろな県がある。九州出身の某氏によると大きく三つのエリアにわかれるらしいが、たぶん北の方と真ん中の方と南の方であろう。鹿児島が異国というのはよくわかる。北の方には福岡がある。その西には佐賀、長崎であろう。真ん中あたりには宮崎、熊本がある。どこで線が引かれるのかは知らない。ところで今わたしは九州にあるすべての県を列挙したであろうか。一つくらい忘れていそうな気がする。忘れていたとしてもその県は確かに存在するので安心して頂きたい。
 存在感がなくてよく忘れられる県としては岐阜があるが、近畿圏に住んだことのある人間にとって岐阜はさほどマイナーでもない。天下分け目の関ヶ原があるのが岐阜県で、鈍行列車だけで東京から京都に移動する途中、関ヶ原でとうとう気持ちが悪くなって吐いたのがわたしにとっての関が原のすべてだ。吐いてすっきりして京都まで行ったからなるほど天下分け目かと思うがたぶん違う。どちらかというと佐賀とか富山とかの方が存在感が薄いが、これらの県も確かに存在するので安心して頂きたい。
 ところで最近わたしは八王子を訪れたのだけれど、八王子というのは大変良いところである。また越谷も訪問したのだけれど、これも素晴らしい土地であった。このように、文句ばかり言うわたしも文句ばかり言っているわけではない。良いところは良いと褒める。予備校時代に右翼の英語教師がいて、ロシアにも良いところがある、右翼でも良いところは良いと褒める、と仰っていたけれど、そういう人間は本当は良いところなど少しも見ていない。大体他所様をとりあげて良いとか悪いとか色をつけている時点で視野が狭いし傲慢で失敬である。本当に申し訳ございません。
 今考えているのは、旅が好きなので結構いろいろな土地を訪れたものの、すぐに忘れてしまうし、訪れたところで今この瞬間にその土地にはいないし、訪れたあの時から随分といろいろ変わってしまっているのだろうし、結局のところどの土地にも本当に到達していないのではないか、という不安である。人はどこかに到達するのだろうか。しかしそんなことは考えても仕方がない。日本には様々な土地があり、それぞれの土地に四季とりどりの異なった味わいと風景、名所名物ゆるキャラがあり、あんな良いとここんな良いとこ、沢山あるのだろう。よく知らない。しかし良い感じにイメージすることはできる。美しい国。人は思考したり対象そのものに真に肉薄することが本当に嫌いで、なぜなら疲れるからで、バナナみたいな形に並んだ日本列島および卒業式に出られなかったお友達みたいに左下に描かれた沖縄という図にわたしたちは騙されている。だが騙されたいのだから仕方あるまい。何を言っても無駄である。



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