ゾンビにも殺されてみないとわからない

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思考の現実性、みたいなことを考えている。
例えば、結構多くの女は「彼氏に浮気されたら嫌だ」と思うだろうし、「嫌だからそうならないようにする」「嫌だから嫌ということを伝える」「嫌だというのは言うまでもなく当たり前のことだ」等と考えるだろう。ここで予見されている「彼氏に浮気されたら嫌だ」は、まだ起こっていないことだけれど、かなりリアルな、現実の一部のような力を持っている。
ある種の人びとはこういうことが今ひとつぼんやりしている。
「筋から言って、嫌なものだろう」くらいには考え、頭では理解するのだけれど、同時に「いや本当にそうか?」と自分の予想を疑っている。まだ起こっていないのだから100%ということはない。仮に以前に浮気されて嫌だったとしても、次の浮気は平気でヘラヘラしているかもしれない。むしろハッピーかもしれない。そうでないとは言い切れない。と考えてしまう。
電気のコンセントの脇にピンセットが置いてあると、つい入れてしまう。
これも、コンセントにピンセットを入れたら電気がショートして大変なことになる、ということを全然知らない、というわけではない。まあ知らないでやってしまう子どももいるだろうけれど、知らないなりに「なんかヤバい」と感じていたりする。でもやってしまう。まだ「ヤバさ」の正体がわからないから。「ヤバそう」だと予感すると、安全策をとって近づかないより、その「ヤバさ」の正体を突き止める欲の方に負けてしまう。ゾンビ映画で最初に殺されるタイプ。
まあ、わたしなどもその手のクチで、流石にコンセントにピンセットは入れないのだけれど、もうちょっと複雑で新奇な事象に遭遇すると、ついつい吸い込まれてしまう。
普通の人間でも、そういう魔が差す瞬間というのはあるだろう。
車を運転していて狭い路地に入り「ああ、ここは切り返さないと曲がれないな」とはっきり頭で考えているのに、なぜかそのまま行って擦ってしまう。そういうこと、ありませんか? ないですかね?
わたしたちは、頭で予想したことをかなりリアルなものとして受け止めて行動することができ、そのリアルさに騙されて、良くも悪くも世界を抽象度の高い意味や理解に還元してしまう。そのお陰で脳みそのメモリを節約して平和な日常が送れるのだけれど、ちょっと嘘でちょっと生ぬるいし、文学ではない。
彼氏に浮気されると、まあ嫌は嫌なのだろうけれど、嫌という一言に還元できないような予想もしていなかったことが巻き起こる。そこのひりつくような死に至るリアリティに比べると、浮気されて嫌の「嫌」なんてまったく取るに足らない。もう嫌とか良いとかそういうレベルではない。そこの価値に惹かれてやまないのは、浮気されても良い、とかいうこととは全然違うんですよ。良いとか悪いとかではないの。
人間、どのみち一度は死ぬのだから、ゾンビに殺されてみるのも面白い死に方だろう。そんなことないですかね。ないような気もします。やってみないとわからない。



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